前回が異様に短かったのは、やっぱり明暦の大火については記事一つ使わないといけないかな、と思ったからで御座います。
それ程にこの火災の影響は大きかったので御座います。
時は1657年の事で御座います。本郷の本妙寺を皮切りに新鷹匠町・麹町からも火の手が上がり、瞬く間に江戸全土が火に包まれ、あまつさえ江戸城が燃えるという大火事になってしまったので御座います。
この火事による死者は10万人とも謂われており、
正に空前絶後の大災害となってしまいました。
これ程被害が広まったのにはいくつか理由が御座います。
まず当時の江戸は、江戸城を中心として乱雑に建物が密集しておりました。
それ故、火の手を食い止める事が出来なかったので御座います。
更に隅田川に橋が架かってなかった事が被害を大きくしてしまいました。
当時、川に橋は余りかかっていなかったそうな。
一つには橋を架けると敵が進軍しやすくなる、という事が挙げられますが、
最も大きな理由はコストが高い、という事が挙げられましょう。
前回お話しましたが、当時日本は流通は殆ど舟が担っておりました。
その為陸運というものはそこまで重視されていなかったので御座います。
そういった事情で高い金を払って橋を架けても得る物は少なく、
更に大雨が降って橋が流されれば元の木阿弥になるという現実や、
常に橋を整備しなくてはならないといったコストを考えると、
「別に橋なんか無くってもいいじゃん」
と思ったとしても仕方がありません。
ところがこの考えが、明暦の大火では火に捲かれた住民が
次々に隅田川に飛び込み結果溺死するという壮絶な事態を招くことになったので御座います。
また、住民が避難の際家財道具を車長持という民具で運ぼうとした結果交通渋滞が発生し逃げられなくなった者もいたとされております。
この大災害によって幕府は江戸の改造に取り掛かる事になりました。
まず防災の為に火除地を作り、防火線にもなる広小路も作りました。
そしてなにより、隅田川に橋が架かりました。両国橋や永代橋で御座います。
特に永代橋は長さ200メートルという当時最長の橋で、橋の上からは「西に富士、北には筑波、南は箱根、東は安房上総」が一望できるという江戸っ子自慢のスポットになったので御座います。
更に火に強い土蔵造や瓦葺屋根を推奨。ついでに交通渋滞の元になった車長持の販売を禁止しました。
またこの火事によって建立されたのが回向院で御座います。
余りにも身元不明の遺体が多かったので建てられたのだとか。
この災害からの復興の為幕府は備蓄米の放出・材木や米の価格統制・武士、町民を問わない復興資金援助といった政策に奔走する事となりました。
この後幕府は度々資金難に襲われますが、
実はその大きな原因がこの復興支援策なので御座います。
余りに膨大な出費に幕府は焼失した江戸城天守閣の再建を断念する事になった程なので御座います。
そう、なんと江戸城は1657年にはその顔ともいえる天守閣を喪っていたので御座います。
この明暦の大火の出火原因ですが、これには中々にホラーなお話が御座います。
それによれば、恋患いで死んでしまった少女がおり、
彼女の遺品である振袖を着た者が次々に亡くなってしまい、
遂には本妙寺にてこれを供養しようと護摩の火に放り込んだところ
突如風が吹き振袖が飛んでいきこれが元で大火事になった・・・と。
故に明暦の大火の事を振袖火事と呼ぶそうな。まあこれは作り話らしいですが・・・。
しかし幕府の必死の政策にも関わらず火事は度々発生し、
その度に多くの出費を余儀なくされたので御座います。
話者 大宅世学
