保険の件が端緒についたところで、肉親も家庭に一旦帰る日となる。同行して何かを行うと

いう必要がなくなったので、この機会に関西圏の親類にと言っても二軒に過ぎないが、父の

訃報を届にむかうことにした。

 大阪市内南部と大阪府南部が目的地である。列車を乗り継ぎ遠い方を先に訪問した。

やってることは相も変わらず行き当たりばったりで、時間があって良かったと思う。人生も

晩節に近づいているのにぶら下がり感がなんとも茫漠と不安をかきたてますな。

  父親と同じ程度の年齢で要介護2である伯父は毎日訪問介護をうけマンション住まいを

続けている。従兄は東京で家庭を持ち偶に帰郷するぐらいなのだが叔父に拠れば一緒に暮らす

ことは子供の負担になるから今の生活がいいという旨を語ってくれた。わが父はどのように

この息子のふるまいを観ていたのだろうか聴けるものならと思ってしまった。

 予め父の近況において変化があったのでお伝えしたいと前日に連絡を入れていたので察し

てはいたようで、父親の死を伝えたところ涙がこぼれるものだから、もらい泣きをした。

死の顛末については事故によるものとして詳細は伝えずにいたのだが、伝えたくとも言葉が

なく、また苦しい末期であったことを述べる勇気もなかった。勧めにより一献頂戴して辞去。

 大阪市内の宿にむかったがこんな至便な(夜は煌びやかな)ところが田舎より随分安く宿泊

できてしまう泊まらずともよかったが移動とわずかの環境変化でも気分的には上々で久しく

安眠できなかったのに、この日は早めに就寝できた。

 翌日は父親の姉にあたる叔母の居処に赴いた。実は叔母はグループホームに一旦入居して

いたのだが認知症と既往症が進行し病院で終末をむかえたとのこと。父はこれを知らずに

逝ったのだが、年齢の近いまして血族の死亡の報を聞くのは辛かったろうと想像できた。

 従兄の配慮に感謝しつつ父のことを改めて伝えたところ、自らは子育ても終わり、今は独居

の身の上なので事故のあった時点で身寄りが近くにいたのは良かったと思う。墓は本家の手前

言いたくはないが、どこか別の寺でもいいので埋葬の際には呼んでほしいと告げられる。

 手紙で済ませられる内容ではあったが、実際に近況も含めて話をしてみると火災の状況と

最期が脳裡に浮かんで、なかなか苦しい作業ではある。それでも、此方の心情を察し葬儀に

呼びもしなかった事への非難もなく、優しく送り出してくれたおふたかたには、自分には

まだ足りない大人のたしなみを教わりました。


⭕わが母も要介護4の認知症患者であった。伯父の妻は母の姉妹で形質も似ているし病状も

 そっくりであった。その症状から母の発病が近いことを予測できなかったため施設の手配

 がなかなかできず両親介護を短い期間体験した。

 二親の精神・肉体の状況は異なるのですべきことは多様であったが全てをこなすことは

 できず家屋内での転倒や徘徊に悩まされていた。

⭕夫婦で一定の年齢、例えばどちらかが70歳に達したら物忘れ外来で検査受けて、家族で

 介護や一家の未来を考える機会を持つことができればいいという理想論をもう必要もない

 が、思っている。


写真は途上で乗った特急のシート。こんな写真も撮ろうかと少しは気持ちらしきものも現れ

はじめた。大阪あたりで食べたもの。冷食ばかりだったので。