ここで内省的なことをみてみると…
⭕自発的もしくは問われて応えるにしても未だ父親の死亡を伝えていない親戚筋や友人・知人  
 が大半でさして付き合いのない近隣のいわゆる町内会の人ほど火災による火傷たもとで死亡
 したことを知っているぐらいである。
⭕親戚筋では自らは葬儀の挨拶などは行っておらず、肉親が口頭で伝えた次第である。
⭕この数年父母の介護をしていたことを知っている友人・知人に対しては会社関係でできた
 友人にのみ伝えていた。
⭕かつての上司や自分自身が客にあたるような立場の場合は伝えていない。
 
 介護を続けるにあたり行政・勤務先で十分に理解を得られなかったか、そこまでしなくても
といったアドバイスをくれた方々や、逆に大いに心情的に理解してくれている人にも言って
いない。
 介護を生活の軸にしてそれなりに周囲から視ても個人的な生活に大きな犠牲をはらっている
ように観られたくなかったことが影響しているのである。
 拠って立つところが十全な介護と自身の健全な生活の両立だったわけで、今思えばそんな
ものはなかったことが如実に示されているわけだ。簡単に言えば、 介護・看護を二十四時間
切れ目なくできるわけがないのである。
 結果、火災事故が出来し介護対象者を脅威に曝し望まぬ苦しみに追い遣り不可逆的な不幸
事案を演出してしまった訳である。
 思い上がりであったと言えるが、せざるを得ない環境下にあったのも事実。そのことに
関しては以後まとめの機会があれば顛末を書いてみたい。

 概してまわりのひとの言うことは正しいし行動に言い聞かせを反映できていれば、こと
あるときに共感と援助を受けられ、自分の現今の身上に哀れみではなく希望があらわれ、
更に良好な社会性をまわり・ひとと築けるのだろうと思う。
 
 これからも伝えていない人々に澄ました顔で気がついたようにいつの間にか亡くなったよ
と言うに違いない。誤った方向のレジリエンスなのだろうが今は それで自身が納得するしかないのである。

⭕何か対立しているようだなと感じることがあれば、実は将来に禍根を植えていることなの
 かも知れない。まわりのひとは意図せず自分にとって利益のあることを言ってくれているの
 かも知れないと。思えば善かったかな。

写真は偶々あった刺身包丁でスーパーで値下げ後の魚片身を切って食べてみた図