3ヶ月で人生を変える物語
1章 転落
転落

渡辺は、本社ビルの9階から、地下へ続く階段をゆっくりと下っていた。エレベータには乗りたくなかった。しょぼくれた顔を知り合いに見られたくなかった。今は誰とも顔を合わせたくない。ほんの数分前までは気が張っていたせいか、人事部の担当者とも笑顔で話せていた。会議室を出たとたん、厳しい現実が迫ってきた。

「そうか、もう、俺はこの会社に必要ないってことなのか・・・」

誰もいない階段の途中で渡辺は小さな声でつぶやいた。

 

1時間前、渡辺は人事部に呼ばれて、人事担当役員の個室のすぐ横にある会議室にいた。めったに入ったことのない部屋だ。

人事部の担当者の金井はまだ若い男性だ。入社年次は渡辺よりかなり後だろう。顔は知っているが、ほとんど会話したことはなかった。

「お忙しいところ恐れ入ります。本部長の方からはお話があったと思いますが」妙に神妙な態度で金井が話し始めた。

「本部長からはとにかく人事の話を聞いて来いというだけで、細かい話はまだ何も聞いていませんが」渡辺が答えた。

「現在関連子会社へ出向されている方々へ、今後のオプションについて説明しています。ご承知のとおり、本社の業績が悪化していることもあって、今後はグループ子会社の強化がテーマになっています。現在のお仕事が引き続き担当していただくには、子会社へ転籍していただいて、子会社の社員として頑張っていただきたいと考えています」

「転籍ということですか・・・」渡辺には寝耳に水の話だった。

「はい、いったん本社を退職していただいて、改めて子会社へ入社していただきます」

その後は、事務的な退職手続きの説明が続いた。いまなら割り増し退職金も出るし、この不況の中で、優良子会社へ移籍できるのは恵まれている、そんな説明のようだった。

渡辺は、細かい資料を眺めてはいたが、説明はほとんど頭に入っていかない。

「なぜ俺なのか、なぜ・・・」その問いが頭の中を駆け巡っていた。

金井の説明は、すでに渡辺が転籍に同意することが前提となっているようた。他にも説明しなければならない社員が何人がいる様子で、早めに説明を切り上げたい様子が見て取れた。

「金井さん、これって、もう選択肢のない話ですか。つまり本社に残る可能性はないといことですか」一通り説明が終わった時点で、渡辺が一番聞きたい点を思いきって質問した。

「もちろん、ご本人が同意していただくことが前提です。ただし、今の仕事をそのまま継続する場合は転籍が必要になります」

「そうですか」

「この手続きの締め切りは、今月末までですので、今日お渡しした資料をよく読まれて、月末までにご返事をお願いします」

「わかりました」渡辺はそう返事するしかなかった。

「金井さんもまだ若いのに、こんな役回りで大変ですね」

「ええ、まあ、この件は私が窓口ということになっていまして、仕事ですから仕方がないです」

帰り際、人事部の部屋を出るときに、奥の方で、人事担当役員と金井の上司である人事部長がひそひそ話しをしているのが目に入った。この件で転籍させる社員の頭数を相談をしているのだろう。

渡辺は視線を合わさず足早に通り過ぎた。とにかく、この部屋を一刻も早く出て行きたかった。

 

地下へ続く階段を下りながら、渡辺の頭には、ここ1,2年の間の人事異動のことが思い出されていた。今思えば、2年前、新規事業の失敗の責任を取って営業管理部門に異動になったことが伏線だったようだ。あの時点で、俺はもう営業の第一線では使えないと烙印をおされてしまったのだろう。

その新規事業はもともとは別の人間が立ち上げたものだが、有力な競合メーカーの参入で赤字事業となってしまった。その社員の突然の退職もあって、他に引き受ける社員がいなくなり、仕方なく渡辺が担当課長となった。しかし、その後も人員削減や、自社扱いブランドの不良品トラブルなどが重なって、市場からの撤退を余儀なくされた。結局最後に担当した渡辺がすべての責任を取る形となりビジネスを清算し、今の子会社へ出向になった。子会社といってもほとんどが本社からの出向者で占める小さな会社だ。いままでいた営業部のすぐ横のフロアに間借りして、営業事務を担当している。

 

子会社へ転籍になれば、給与レベルは大幅に下がる。まっさきに浮かんだことは家のローンと子供の教育費のことだ。まだ子供は小さいし、これから受験などでお金がかかる年代だ。

今は下の子供が受験勉強の真っ最中で、毎晩遅くまで塾通いをしている。遊びたいのを我慢して勉強している子供や、子供と一緒に、この受験戦争を乗り切るために、必死にサポートしている妻のことを思うと、とてもこんな話を切り出せる雰囲気ではない。余計な心配はかけたくなかった。とにかく先の見通しがつくまでは話をしても不安にさせるだけだ。こんなことで子供の将来に影響が出ることだけは避けたい。親の事情で選択肢を狭めることだけは絶対にしたくない。

 

気がつくと、地下の社員食堂に到着していた。もう昼休みが始まっているようで、カフェテリア方式で料理が並んでいるカウンターにはいつものように行列ができていた。いつもの習慣で並んでしまったが、今は他の社員とは顔を合わせたくなかった。

会計を済ませて、テーブルが並んでいるフロアに出ると、手前の席はもう埋まっているようだ。一番手前の特等席には、さっき人事部で見た、人事担当役員と部長、そして、面談した金井が座っていた。何かひそひそ声で話しをしている。時折笑い声が聞こえてくる。週末の接待ゴルフの話しでもしているようだ。

そのテーブルの横を足早に通りすぎて、空いている席を探すが、どの席にも顔なじみがいる。いつもなら、すっと隣に座り、挨拶をして、ゴルフかマージャンの話で盛り上がるところだが。今日はそんな気分ではない。特に同期の横には座りたくなかった。渡辺の年代になると、順調に昇進している勝ち組と、閑職にいる負け組みとの差が歴然としてくる。仕方がないことだが、今は顔を合わせるのも辛い。

 

知り合いのいない席を探してさまよっているうちに、食堂の一番隅の席にたどり着いた。このエリアは関連子会社の社員が多く集まっていた。食堂の座る位置はなんとなく住み分けされる。一番不便でエアコンの効きも悪いこの場所が今の自分にふさわしい場所なのか。

とにかく一刻も早くこの場を離れたかった。何を食べたかも覚えていない。とにかく、定食のおかずを無理やり口にほうばって席を立った。

 

さて、これからどうしよう。このまま自分の席に戻って、自分を切り捨てた上司の顔をみる気もしない。人目を避けるように、会社を出た渡辺は、少し離れた公園に向かった。ここなら、うちの社員もこないだろう。

ビジネス街の小さな公園は、もう9月だが、まだ残暑が厳しかった。空いているベンチに座って園内を見渡すと、コンビニ弁当を食べているOLに混じって、自分と同世代のサラリーマン男性がけっこう多い。みな一人で、ぼんやりと座っている。ハトにえさをあげている男もいる。常連のようだ。

「はー」渡辺は大きなため息をついた。

さて、これからどうしようか。自分にはどんな選択肢、カードが残っているのだろうか。渡辺は午前中の金井との話を思い出していた。

今月末までに返事する必要がある。本人が同意することが前提との話だが、断れば本社に居場所はない。人事に逆らって閑職に追いやられ自主退職をよぎなくされた社員を何人か知っている。親会社が引いたレールに従わないということは、やめざる終えないといことなのだろう。敗者復活はないということだ。この会社を辞めて、今と同じレベルの待遇で採用してくる会社など考えられなかった。この不況の世の中で中高年の再就職は非常に厳しい。この会社で定年まで働くことを前提に人生設計をしていた渡辺にとって、残されたカードは一枚しかないように思えた。

 

3ヶ月で人生を変える物語
1章 転落
回想

今日は12月24日、クリスマスイブだ。今年は暖冬の予想がはずれ、記録的な寒さになった。夕方のテレビニュースは、日本海側では、一晩に2メートルを越す大雪となり停電となったことを報じていた。東京もかなり冷え込んでいる。

 

寒がりの渡辺は部屋の中にもかかわらずいつものようにダウンを着込んで自分の書斎にいた。エアコンの暖房は空気がカラカラに乾燥してしまうので苦手だった。書斎の空気は冷え込んでいたが、エアコンの音もなく、静まり返ったこの部屋の雰囲気が好きだった。この部屋にはテレビの誘惑もない。大きく開かれた窓の外には、すぐ隣の公園の緑が借景となっていた。4面ある窓ガラスを埋めているのは公園からその奥の小高い丘まで続く木々だけだ。はるかかなたには渡辺がかってに名づけた3本松が目立っていた。もし、目の前の電信柱がなかったら、都内にいることを忘れさせてくれるような景色だった。

 

気がつくと、書斎の扉の外で「クンクン」と鳴き声が聞こえる。

扉を開けると、サンタが勢いよく入ってきて、ソファーに座っている渡辺の横に飛び乗ってきた。

「なんだ、サンタか、どうした、暇にしているのか?」

渡辺はサンタの背中を撫ぜながらサンタの顔を覗き込んだ。

サンタはアイコンタクトが実に上手だ。こちらが話している時は、じっと見つめながら、熱心に聴いてくれる。

サンタは渡辺の家族の一員である犬の名前だ。犬種はミニチュアシュナウザー。昔あった“わんわん物語”というアニメ映画の主人公のオス犬に似た、髭を生やしたおじいさんのような風貌の犬だ。

サンタが渡辺家に来て今年でもう5年になる。もともとじいさん顔だが、人間で言えば、もうりっぱなおじさんの年だ。

 

ここは渡辺の書斎であり、仕事場だ。ついさっきまで、出版社の編集担当である斉藤とこの部屋で来月出版する本の打ち合わせをしていた。ここ二週間ほどかけて最終の著者校正を終えた原稿をやっと手渡せたところだ。今年もなんとかぎりぎり締め切りの約束を果たせた。

斉藤とは5年前に初めての本を出版して以来のつきあいで、妙に馬が合った。本が世に出るかどうかは担当の編集者しだいだ。面白い作品でも、その良さを理解してくれて、支援してくれる優れた編集者にめぐり合うことがなければ日の目を見ることはない。斉藤は渡辺にとっては執筆コーチのような存在だ。斉藤のアドバイスはソフトな口調だが、自分の主張は簡単には曲げない頑固なところがある。そこが魅力でもある。渡辺が書き下ろした原稿は、宝石で言えば粗削りの原石のままだ。編集者の情熱と感性が読者が思わず手に取りたいと思うような光り輝く作品に仕上げていく。価値あるアウトプットに仕上げていく過程では、この著者と編集者とのコラボレーションが欠かせない。

 

書斎の左手の壁は一面が本棚になっていた。自分で宣言した締め切りを守れたことで肩の力が抜けてほっとした渡辺は、いつもの棚から一冊の本を手にとってパラパラをめくっていた。執筆の元気をもらうためのいつもの儀式だ。実際に手にとって重みを感じ、指先の感覚で本を味わう。

作家であり、プロフェッショナルコーチでもある渡辺にとって、クライアントの表情、態度、仕草を注意深く観察することが習慣になっている。観察に必要なのは、視覚、聴覚、身体感覚、嗅覚、味覚の5感を研ぎ澄ますことだ。5感の内、特に身体感覚が優れいてる渡辺は、この本のページをパラパラめくる動作をすることで、その本を執筆していたころの思い出がよみがえってくる。本の背表紙には「コーチングストーリー」とある。5年間前に渡辺が始めて出版した本だ。

 

そして、その最初に出版した本の隣、その棚の一番左端には、もうボロボロになったA4版の簡易製本した本が並んでいた。渡辺は本当に久しぶりにそのボロボロの本を手にとって表紙を眺めた。タイトルには「マイビジョンノート」とある。日付はちょうど5年前。副題には「3ヶ月で人生を変える物語」とある。

同じように手に取って、ページをめくっていく。

いたるところに、書き込みや、蛍光ペンで印がついている。その当時何度も読み返したのだろう、本の下半分のページは、親指のめくった跡が黒くなっている。

読み出すとついつい先に進んでしまう。かつて自分が執筆した、自分の文章、つまり自分が口に出した言葉を読み返すことで、だんだんとペースがあってくる。そのときの物語に引き込まれていく。・・・

渡辺は5年前の夏、あの日のことを思い出していた。