なんで給食を全部お米にしないのかね?不思議だ


昨日の続きです


米百表の精神から触れて見ようと思います


戊辰戦争で敗れた長岡藩、その藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず
売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定した


「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
押しかけ抗議する藩士たちに対し虎三郎が言った言葉

後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出されたそうな


戊辰戦争で藩が参戦することに、反対の立場とった虎三郎と敗戦後の教育改革・教育方針

国(藩)が栄える為には人であり、その為には教育が最も必要だと言う話


これが上手く捻じ曲がって左翼思想とリンクされ変な感じになってるんだが・・・∑(-x-;)


西洋の精密な学問に驚き、富国強兵のためには、この国の乏しい人材を基礎から養成していかねば
それから世界の国々と肩を並べるべきだとの思いから米百表の精神が出てきた

決して反戦・平和教育ではない事が分かる



戦前教育を大雑把に振り返って見ます


明治維新から始まる日本否定、西洋肯定(鹿鳴館時代:欧化主義を広める→日本時代遅れ論)

これではダメだと言う事で

立て直しのため教育勅語(1890:日本教育の基本方針を示した明治天皇の勅語)

http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html  (明治神宮HPから口語文訳です)

修身(1904:戦前小・中学校教育科目の一つ 教育勅語を拠り所とし国民道徳、実践指導を目的としたもの)

これにより日本再生へと


順位としては徳育>知育≧体育てな感じ


もともとこの流れは1880年頃から本格化し、初めから素直に受け入れられた訳ではなかった

時代背景もあるし、特に学者の間では「徳育論争」と呼ばれるほど限りがない議論へと・・・

最終的に「教育勅語」が出され解決を迎える事となったそうな


海外の評価


明治維新以降の日本に来た外国人に絶賛された

「生活の貧しさにも関わらず誠実・人を裏切らない・真面目に努力する・我慢強い・親切(貧しくとも心は豊か・道徳観の高さ)であると」


日本から海外へ


1907:菊池男爵教育勅語ロンドン公演25回

1908:第一回世界道徳会議

大絶賛だったそうな

そして(イギリス・フランス・ドイツ・中国でさえも)ロンドンからの要求で各国に教育勅語翻訳され→全世界へ→大絶賛→今でも各国で使われている(日本では勿論、使用不可)


現在のアメリカ

The Book of Virtues:修身を基に編集した教育改革の副読本「欧米で3000万部のベストセラー」
現在アメリカでは聖書の次に使われている教育本←マンガよりすげぇ\(゜□゜)/


戦前・戦後教育の特徴私なりの簡単な理解です)


戦前の教育 ・リーダーの教育の重視心構え道徳教育の徹底
戦後教育 ・個人主義:教えなくても自然と人はそうなる・・・言わば、事なかれ主義共同体破壊


と言えるのではないでしょうか。



何故?過去、現在においても評価され結果も残して来た日本の教育と言うものがあるのに、現在も封印され続けているのだろう?


敗戦の後の復興(小林虎三郎)、占領の後の統治(GHQの手法)、崩れた国の立て直し(戦前教育・戦後の道徳教科復活)などを見るに


教育国を成す根幹と常に位置づけられるほど大切な要素なのだとわかる


であるが故に、絶大な威力を発揮する有効な道具として使われ、すなわち権力に使われ一歩間違えると国を滅ぼす可能性もある、そう言う道具なんだと思います


「教育が悪い」と漠然と語る人がいますが、誰が・何の為にその道具を利用してるのかをあまり言わない

その使う人(利権・特権を得る人)がどのような思想の下、どのような利益となるのかが重要だと思うのですが・・・


国益・民益になる教育を、50年・100年後の日本が在るためにもう一度日本に取り戻せたらと切に願う次第です



こういった国の基本を成す制度には激しい賛否両論が付き物です

必ずどちらサイドも支配的・奴隷的と段々極端な方向に議論がなびいて行く・・・それがいけない事のように


当たり前の事ですが、私たちは誰かの強い力によって守られ・導かれ・利用されてこの社会が成り立っている

ならば声高に「支配される」だの「奴隷化だ」だのと極論を言われようが「だから何?当たり前じゃん」ではないでしょうか


この社会の隷属性を認識した上で、国のあり方、国民のあり方、地域のあり方、家族のあり方そして個のあり方を考える(国家、社会、地域その基礎となるのは家族であると私は思います)



時代とともに変化していい物いつの時も変わらず守り続けなければならない物

この2つの基礎なくして国と呼ぶ事は出来ないのではないでしょうか


唯一、国境に囚われず自由に行き来する代物が経済です

経済に余りにも偏重すると国の外枠がぼんやりと成らざるおえなくなる

それでも国として意思を持つために必要なのが教育であると思います


どちらに重きを置くのが良いのかは私達が選挙で決めればいいのです

決めるためには、より正しい情報を得、整理し、判断すればいい


一つだけ言える事はテレビはそのツールには成り得ない」という事です

(テレビも教育と同じ権力・特権側の道具に過ぎないのですから)





『高き屋に のぼりて見れば けむり立つ 民のかまどは にぎはいにけり』

後に「聖帝の世」といわれた時代、その仁徳天皇が残された歌です



・・・つづく。