ブログのネタを探すために生きているわけではないし、本当に何かが億劫になる時期というのはあるものだ。安倍政権が終わって新たな時代が到来したとは言え、自分の人生が劇的に変わった訳ではない。

近頃はmicrosoft teamsでウェブ会議などというのを体験したが、こんなのでオンライン飲み会などやる奴の気が知れないというか、基本的には緊急時の伝言板の類でありビジネスにこれが無くては始まらないというのはチョット驚きだが…

今ではビデオ会議ツール/アプリは様々なものが知られているが、チョイ前までの自分はskypeくらいしか知らなかった。無謀にもソフトバンクグループの入社試験を受けた事があり、そこでskype面接も可、という事を知ったのだが、さすが電話通信会社、と思ったくらいで見事に試験は落ちた。もの凄いゲリラ豪雨の中わざわざ汐留のビルまで遠征したことが忘れられない。(もちろん入社はできなかったが)

今NTT ドコモが問題を起こしてる渦中だが、ソフトバンクも過去最大の赤字を出したり、「人の褌で相撲を取る」的な強引な経営手法が波乱を巻き起こしてるのを見ると、やはり彼らに深く関わらなかったのは正解だと思えてくる。ちなみに受付のオネーサンも面接担当の社員もすっごく綺麗だったのだが、彼らは日本人なのか中国人なのか韓国人なのかは分からない。長年同じコンタクトレンズを着用していたため視界の曇りが酷く、ちょっと入口では醜態をさらしてしまったのだが、色々と人生において役に立たない体験をしておくというのも重要である。早稲田の入学試験の日に財布をスられたのは最高に思い出したくない体験だが、この手の話が自分にはいっぱいある。基本的におっちょこちょいの人間なので、海外旅行なんか一人では行けないよなあ。新婚旅行はイタリア、向こうでグルメ三昧の旅、などという妄想を抱いていた少年時代だが、今や食欲もあんまり無く、マンネリ化が常態と化したような生活になってしまったので、本当に若き頃の勇気や独りよがりな思い込み、空虚な自信、それら全てひっくるめて遠い目で振り返るといった感情だろうか。
懐かしいとはまた違うが、バブル的な上昇気流に乗ってイケイケだった時代が自分にもあったという事だ。結局自分以外の多くの人々を巻き込むことができずにバブルは破綻し、もうちょっとあの時真剣にやっておけば良い、という事も山のようにあるのだが。人生が2020年9月で突然終わってしまったらこのブログも当然ストップするが、その場合2010年2月15日は単なる破滅の始まりでしかなく、後世の歴史には何も影響を影響を及ぼさなかったことになる。実際はこの日を起点として民主党政権が崩壊過程に入り、原発事故や消費税政局など色んなことがあって、こんにちに至るわけであるけど。

金をスラれた、財布を盗られたという体験はやはり深くネガティブな記憶として刻まれるものである。基本的に東京ではそういう目にはあまり遇ったことは無いので、やはり原発ファシズムの総本山である茨城北部の人々に僕は嫌われているのであろう。自転車旅で東海村に行ったら顔にハエがたかってきて、日立では不審者扱いで警官に質問されるという不愉快な目に遭った。基本水戸より北は東北地方並みに閉鎖的である。

ま、大学時代の俺は何かというと髪を伸ばしている時間が長く、節約のために一年に3~4回しか床屋に行かないという変な徹底ぶりがあったけど。が、髪を伸ばしていても剃っていてもツマラン奴に理解されないのは変わらん事であるので、保守や革新などと二項対立的に騒いでる人々が自分にはまったく理解できん訳です。表面的で薄っぺらい現状認識のまま幸せな人生を送る人々がある意味でうらやましいが、テレビで適当なことを言ってお金を稼いでる芸能人に洗脳される人生などというのは、真っ平ごめんである。

加賀谷、じゃなくて伊勢谷友介くんが逮捕されたが、ピエール瀧や沢尻の時のように必ずしも政治的偏向、が見られる人物でないためあまりマスコミでも叩かれていない…吉永小百合の映画に出るくらいだから基本的に左の人士だと思うけど、日テレに良く出る森ファミリーのブス嬢と付き合ったり、みんなの党から参院選に出馬しようとした、というエピソードは右っぽい。という訳で一概にドラッグ=アカとも言い切れないのが厄介なところ。ともあれTOKIOの長瀬くん、松岡くんは顔からしてヤバい臭いをぷんぷん漂わせながら一向に逮捕されない訳だが、前にも言った通り右も左も無いわけです。90年代の失われた時代を作った人間にはとっとと退場してもらいたいというのが正直なところ。村上正邦という男が死んだが、橋本竜太郎やこういう政治家が最も危険なわけです。私利私欲だけで人生を貫徹しようとすると、人間トンでもない災厄を社会にもたらす導火線となるわけです。若い頃は体育会系、肉体派で鳴らして、晩年は醜い病気の姿をさらして、それすらも同情票で金にしようとする奴。そういうのを人間味じゃなくて自業自得って言うんだよまったく。右翼から左翼に変節した小沢一郎とかね。虚勢をはって生きる人生のどこが立派なものか。

石原裕次郎はその典型でみっともないの極致だが、兄の慎太郎都知事はまともというか、左翼ファシズムの餌食になる事もなく真っ当な晩年を送ってるようで実に羨ましい。たまに「ん?」と思うような発言もあって辟易するが、安楽死関係の発言を見るに過激だけどある種の美学を感じるのも事実だ。が、やっぱり言っちゃいけない事や社会的暗黙のルールというのは守った上で生活しなければいけない。ドラッグを使用したら逮捕されるのはそりゃ当然のことだ。

という訳で今日の文章は(も?)単なる愚痴の類いでした。立憲の合流新党などが成功するとはとても思えないし時代はポスト戦後に確実に向かっているのだが、色々と社会的ストレスの多い面倒な時代、というのは今後数年は続くのだろう。なんたる事だ。

 

 

今日のamazon pickはロッシーニの音楽を。こういう蒸し暑い時期はイタリア音楽がひたすら心に染みるものだ。ロッシーニのピアノ曲集はまたいつか本格的に取り上げるところだが、とにかく美しいメロディーや驚きに満ちており、作曲技法のデパートのような存在だ!!なんでこういう素晴らしい音楽を、極左の権威主義にまみれた音楽界が無視し続けてるのかは分からない。ま、わかる人だけわかれば良いんだけど。趣味って基本的にそういう物でしょ。当cdのマランゴーニの他にもイルマー、ジャコメッティという人がシリーズを出してそれぞれ全集を名乗ってるわけですが、一番新しくて収録曲も多く、基本的に曲集ごとのまとまりを重視して番号順に録音しているマランゴーニの演奏が、やはり総合的にみて最も素晴らしい。vol.1は「コテージ・アルバム」というリストばりの長大でロマン的な曲集でしたが、vol.2の「子供のためのアルバム」はもっと小じんまりとして、古典的な曲が収められている。ロッシーニのオペラだけでなく作風の多様性を物語るものだが、やはりランダムじゃなくて順番通りに演奏されないと曲の本当の真価は分からない。ちょっと現代のスタインウェイのピアノがうるさくて個人的には古楽器に近い演奏スタイルの方が好きな我輩だが、やっぱり思い入れたっぷりの美音を垂れ流す的な演奏も、やはり捨てがたい魅力がある訳ですよ。中でもbarcalore=舟歌という曲は最高なので是非聞いてやってください。youtubeにもマランゴーニのライブ演奏があるが、彼の並々ならぬ熱意はcdからも伝わってくる。まだシリーズ全部聞いてる訳じゃないが安いし最高である。久々にピアノが弾きたくなってきちゃったなー。「memento homoーdansons」という曲は昔楽譜をダウンロードして弾いたことがありますが実にいい曲です。ピアノの最低音に近い鍵盤をゴーン、ゴーンと鳴らす珍しい響きが楽しめます。ベルリオーズばりに色彩的な曲も中にはあったりして、そこが楽しくてしょうがない訳です。ロッシーニだけで飯何杯も行けますね。グルメな作曲家だけに実に味わい深い。