この説は、昔からあります。
学説的には、証拠弱いのではないかと云うことで、なかなか浸透してはないのですが、たくさんの研究家やユーチューブなど聞くと、かなりの真実味があるようなので、1度ご紹介しておこうと思います。
ちなみに、京都の鞍馬寺
(源義経ゆかりの寺)には、1度訪れたことあるだけで、 今迄特に深く調べたことはなかったのですが、
東北大学教授の田中英道先生のユーチューブで何度か、チンギスハン=源義経説をされてるのをみて、最初はそんなはずないじゃろ??
かなり、懐疑的に見ていましたが、
点と点が線につながっていき、コレは…、 皆さんに伝えておくべきものであると、思い立ち投稿させていただく運びになりました。m(_ _)m。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240102/00/hg9624369/68/37/p/o0300020015384527265.png?caw=800)
チンギスハン(=カン)ってあの、
元(げん)=モンゴル帝国の初代皇帝のことですか??(*^^*)
そうなんです。
モンゴル帝国の初代皇帝が、
なんと、日本の武士、源 義経だと云うんです。(元の由来は、源ともいわれる)
誰が言ってるのかといえば、最初に言い出したのは、ドイツのシーボルトという医師で博物学者です。
その理由のひとつは時系列の一致。
義経が死んだとされる1189年(文治5年)以降、突如としてチンギス・ハーンが歴史の舞台に躍り出ていること。
また、チンギス・ハーンが得意としていた長弓は中国やモンゴルにはなかった物であり、日本独特の物であること。
義経が蝦夷に渡ったとする説は、古くは室町時代の御伽草子「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」に見ることができる。
江戸時代になると、儒学者の林羅山(はやしらざん)は、幕府の命で編纂した「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」で、義経は蝦夷に渡って子孫を残したという説があることを紹介している。
また、水戸藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)は、蝦夷に調査団を派遣し、「大日本史」で義経北行説を唱えている。
他にも、チンギスカンが使用したと伝えられる旗印に、源氏にゆかりのある笹竜胆(ささりんどう)に似た紋様を使っていたこと、
・家紋
![「笹竜胆(ささりんどう)」のイメージ画像(提供、真夏の太陽様)](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/dk/expert-image/yamauchirimu/article/00601631/internal_1696697130619.jpeg?fill=1&fc=fff&exp=10800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240103/20/hg9624369/e8/5c/j/o0280027715385193701.jpg?caw=800)
他にも
義経は、
九男として生まれたことから、
「九郎(くろう)」という
仮名を持っていました。
実際、ある貴族の日記には、この武将について
「九郎、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」と
書かれています。
一方で、チンギスハンの別名は
「クロー」だったとされており、
あるモンゴルの古城跡では
「城主をクローと称していた」という言い伝えが
残されていました。
さらに、
その武将は自身を「天神(てんじん)」と
称していたとされていますが、
チンギスハンの前名は「テムジン」だったのです。
「九郎(くろう)」と「クロー」、
「天神」と「テムジン」……
異国の言葉にもかかわらず、
ここまで似ているのは偶然なのでしょうか?
今迄知らなかったのですが、
たくさんのユーチューブで、また書籍で紹介されています。
中でも、決定的なものは、
チンギスハン=成吉思汗と、
漢字で書くのですが、
この当て字は、義経と静御前(しずかごぜん)の別れのシーンが由来だと思われることです。
静御前(しずかごぜん)とは…
静御前は、平安時代後期から鎌倉時代初期に生きた女性です。白拍子(しらびょうし)という、頭に烏帽子(えぼし)をかぶって
水干(すいかん)という装束を着、
太刀を腰につけた男装姿で舞うことを生業としていました。
白拍子舞をはじめたと言われる女性の1人、磯禅師(いそのぜんじ)は静御前の母親です。
文治1(1185)年、兄である源頼朝と不仲になっていた義経は、京都を離れます。その時にも義経の側には静御前がいました。
しかし翌年、雪の降る大和国(現在の奈良県)吉野山の山中で、静御前は義経と別れます。
義経に身の安全を配慮されたためでしたが、ここで静御前は捕まり、母・磯禅師とともに鎌倉へ送られます。
翌4月 鶴岡八幡宮の花見の席で、頼朝より
舞を命じられます。
静御前としては、愛する人の敵の前で舞わされるわけです。
「私はもう2度と舞うまいと心に誓いました。今さら病気のためと申し上げてお断りしたり、我が身の不遇を理由とすることはできません。けれど義経様の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です。」
頼朝の妻、政子が言います。
「天下の舞の名手がたまたまこの地にいるのに、その芸を見ないのは残念なこと。
舞は八幡菩薩に奉納するものです。どのような状況であれ、神につかえる白拍子がこれを断ることはできません」
『義経記』はこのくだりで次のように書いています。
「詮ずるところ敵の前の舞ぞかし。思ふことを歌はばと思ひて」
(どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろうと思って)
静御前は、歌い、また美しく舞ったとされています。
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
「吉野山 峰の白雪 踏みわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(いつも私を、静、静、苧環(おだまき)の花のように美しい静と呼んでくださった義経さま。もし今があの頃だったなら。
吉野の山で雪を踏み分けながら山の彼方に去ってゆかれた義経さま。あとに残された義経さまの足跡が今も愛しくてたまりません。)
どちらも義経を恋い慕う内容だったので、頼朝を激怒させましたが、
政子が「自分も同じ立場ならこうする」と取りなして、なんとか命を助けられました。
この中で、静御前が歌われた義経との思い出の歌のシーン。
その返歌のつもりで
チンギスハン=成吉思汗と名乗ったのではないかと云うことです。つまり
吉野の山に成りて
汗=氵(さんずい=水+干に分解)
水干
水干(すいかん)という装束を着る白拍子
つまり静御前のことを思う。
成す吉し思う汗(すいかん=静御前)
〜なすよしもがな~
(大和言葉でこうも読める)
コレは日本人なら判る感性であると思います。
成=なす
吉=よし
思=も(おもう)
汗=がな(かん≒がん)
静御前に対して「私もあなたを思い続けている」というメッセージ。
また、成吉思汗を漢文風に読み下すと
「吉(よきこと)を成して汗を思う」
「モンゴル統一の覇業をなした今、遠く日本の貴女を思う」ともなる。
源氏の王(モンゴルではカーンは王)
という意味でgengis カーンが訛ったのか?
あるいは源義経(音読み)gengikeiが訛ったのか?
モンゴル語の発音はそうだとして、漢字にこの字をあてたのは、静御前のことをあらわしたとしか思えない。
(でしょ♡ラブロマンスやな(*^^*))
また、前述の田中英道氏は、
野蛮なイメージの強い『元』ですが、
初代に関しては、文字のなかったモンゴルに『パルス文字』の普及や道徳的な規範も備わっていた面がヨーロッパ(イタリア)の、当時の絵画などの痕跡に見られるとの見解も示してくださっています。
つまりそれが(モンゴルの平和要素)=絹の産業発展などにつながり、やがて
ヨーロッパのルネサンスに影響を与えたんだとも。
(田中英道氏はもともと美術の専門家です。絵画に描かれた人物、装飾品、色づかいなど細部から分析判断できる博学の歴史家でもあります。)
他の研究家たちも,
義経の遺跡など調べれば調べるほど、
東北から北海道に渡り、満州へ義経が渡ったとする意見で一致しているようです。