今日は、建国記念の日。


日本国の潮流3……期せずして勝手にシリーズ化になりましたが、そのまま続けてみたいと思います。


諸外国と日本は明らかに建国の形式が異なり、

独自の潮流を持っています。…なかなかコトバにはしないし、日本人自身が気付いてないので、

あえてお題を持って書いてみます。


我が国は、歴史教科書の四大文明に入っておらず、

その主たる要因は、文字を持たなかったことが原因とされている。


しかし、シルクロードを伝って紀元前から多くの人々が来日して、文字の存在は知ってはいたが、あえて長らく使用していなかったフシがある。


というのも奈良、飛鳥時代にいざ、文字をおこしてみると、世界哲学の粋を集めたものをつらつら書き起こしたからだ。


いわゆる聖徳太子の17条憲法、三経義疏(さんきょうぎしょ)などだ。

17条憲法で有名なコトバは、

和(やわらぎ)を以て(もって)尊しですよね

それと、特質すべきは

「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。」
聖徳太子『十七条憲法』 (『真宗聖典』965頁)


私が聖者であるわけではない。彼が愚かであるわけではない。お互いに凡夫でしかないのである。


 凡夫とは一体どのような人のことを言うのでしょうか。太子は「人皆心有り。心おのおの執(と)れること有り(人にはみな心がある。その心にはおのおのこだわるところがある)」とも言います。つまり、誰もがこだわりの心(執着心)を持っているのであり、その点においてみな等しく凡夫であると太子は述べているのです。

 私たちは執着心を持つがゆえに、自分の思い通りにならないことや気に入らないことに対しては怒り、偏ったものの見方をしてしまう可能性を持った存在であると言えるでしょう。太子がここで「お互いに凡夫でしかない」と言うのは、話し合いの場において、そのような自分自身を自覚することが大切であるということを教えようとしているのです。


だいたい世界の哲学で、完成完璧主義が主流のなか唯一、凡夫(長所短所を認め協力が大事)であると説くところに、独自のユニークさと希望がある。 

また、三経義疏も、日本仏教が山にこもり滝にうたれる修行型のものではなく、市井(まちなか)に活きる大衆スタイル(在家仏教)の教えであること、(維摩経=ゆいまきょう)
釈迦様が晩年に説いたとされる法華経
いわゆる観音様(かんのんさま)=その土地や人にあったカタチで真理を説かれるという信仰もこれに含まれる。
女人成仏思想勝鬘経(しょうまんきょう)(前提にインドでは女性は成仏できないとされる思想がある。)

その三経をチョイスする!しかも解釈!!
本場もびっくり(・・;)!!


戦後だいぶ、形骸化したとはいえ現代日本にまだ根付いてるところが
スゴイですよね。
ちなみに、
『八紘一宇』のコトバを日本書紀から抜きとったのも法華経系統の『国柱会』(こくちゅうかい)である。(宮沢賢治も。)

法華経のもっとも云わんとするところは
如来寿量品にょらいじゅりょうほん第十六

つまり、人間の本質(たましい)は永遠存続するのであるとするところである。
はあ?
からの…はあ?(*^^*)
ですが…………。事実上そういう内容が書かれてます。

現代語でわかりやすく言うと中村天風(てんぷう)さん=大谷翔平もそのメソッドを取り入れているという哲人の言葉では、
人間の本体の認証は正しくは○○である。と云われてます。
 



とにかくも、文字を時代の要請受け容れ、日本国の精神性の気高さ、見識の高さ(今もですが世界のトップ)を全世界に見せつけたのが、奈良、飛鳥時代であり、縄文時代からの圧倒的な基盤のつよさ、(万葉集にみられるように貴族だけでなく、多くの国民が参加)美しさしなやかさを兼ね揃えた天平文化の華を開かせた時代でもあるのです。


お時間が来ましたので、今日はこれで、筆を置きます(*^^*)。
最後までお読みくださりありがとうございました。
それでは、またお会いしましょう。バイバイ。