最近、電子書籍で「半七捕物帳」を読み続けています。

スマホで読んでるので、電車で移動しているとき、出先で五分でも時間が空いた時など、ちょこちょこ読んでいますが、今三十数話。

昔、里見浩太朗だったか、ドラマかなんかでやっているとき、祖母に付き合って見ていましたが、そのころは、銭形平次のほうがおもしろいと思っていました。

捕物帳関係のドラマで一番好きなのは江戸の黒豹なんだけど。

でも、銭形平次全集を子育ての一番忙しいときに手に入れて、今ようやく、子供から手が離れてきて読めるようになってきたとき、半七が捕物帳の傑作と聞いたので読んでみようと。

確かに素晴らしい。

 

モチーフというか、着想の原点は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズなんだと思いますが、半七捕物帳は、筆者の「私」が半七老人から回顧譚を聞き出すというスタイル。

幕末の江戸を舞台に、岡っ引きとして数々の難事件を半七が解決してく、というのが大方のストーリーなんですけど、何がスゴイって、江戸の風俗の再現度。

まるで、目に見えるようにリアルな江戸がそこにあるんですよねぇ。

推理小説読んでるはずなのに、同時に、江戸の風俗勉強させてもらってるみたい。

最近、自分が住んでる周辺の郷土史資料とか借りてきて読みましたけど、その資料からも感じた、江戸から明治の空気が漂ってるんです。

 

江戸庶民の生活を読んでてつくづく思いましたが、日本の識字率や女性の教養の高さに感じ入るというか。

半七捕物帳でも、商家に奉公に来ている18・9の女の子が、15・6の妹が田舎から出てくるので、その保証人になり、奉公先に、自筆でサインして証明書を置いてくるってのが、さらっと出てきたりして、商家の奉公人って言ったら社会的にそれほど高い階級じゃないはずなのに、当たり前に字が書けて、人を保証することができるって言うのにびっくりしましたね。

江戸時代の識字率の高さは、そのころのヨーロッパやアメリカとはレベルが違いまして、ほぼ田舎で農業だけに従事してよほどのぎりぎりの生活をしているのでなければたいていは字を読むことができたようで。

イメージ的に、西洋の識字率が2~30%だとすると、日本では80%超えてたんじゃないかなんて思いますけど。

 

よく、ヨーロッパのおとぎ話で王様がおふれを出す時、使者が羊皮紙みたいな巻紙を読み上げてみんなが聞くシーンとかあるじゃないですか。

あれ、日本の昔話だと立て札で済んでますよね。みんな字が読めるからなんですね。

まれに読めない人がいても、読める人が必ずいてみんなに解説してますよね。

西洋で宗教美術が発達したのは、聖書の内容を絵を介して布教するためだったのです。

西洋じゃ、教養は貴族などの特権階級の独占物だったので、庶民は字が読めなくて当たり前な部分もあったみたいです。

江戸時代は瓦版や里見八犬伝などに代表される庶民の文学が盛んでしたよね。

読み書きができる、ということは、人と情報が共有しやすいということです。

庶民の識字率の高さは、私は明治維新にすこぶる貢献していると思うのですよね。

当時、外国の勢力に思うがままにふるまわれてしまった諸外国に比べて、日本は独立を守り、戊辰戦争はあったものの、付け入るスキを与えず済んだのは、庶民の情報の共有というのが欠かせない要素だと思うのです。

 

さて、今回、半七さんを読んでいて、「旅絵師」という話があるのですが、これが、なんか読んでて岡田くんやったらおもしろいのに、とか思っちゃったんですよね。

あらすじとしては、御庭番の話なんですけど、話は、半七老人のまた聞き話で、珍しく主人公は半七じゃないんです。

主人公の御庭番は、ある東北の藩の内紛を探るために江戸を旅立ちます。

途中、渡し船に乗っているとき、川に落ちた女性を助けたのが縁で、探索先で大店を営む主人の世話になることになります。

川に落ちたのは、その大店の箱入り娘だったのですね。

大店の主人は、主人公を下にも置かないおもてなしで破格の待遇をします。

御庭番は旅の絵師に扮していたので、ひたすら大店の離れで絵を描いているのですが、助けられた娘が絵師に恋して、かいがいしく世話をします。

絵師のほうは、隠密の任務を帯びていますから、表向きは丁寧に接してますけど、内心迷惑に思っているわけなんですよね。

絵師は絵をかきながら、藩の情報を集めているのですが、そのうち、藩の要人の息子が絵の注文に来て、糸口もつかめようか、というころ。

大店の主人が、真夜中にお庭番を人気のないお堂に連れ出します。

すわ、正体がばれて闇討ちされるのか、と主人公が身構えていると、主人は御庭番の正体を知ったうえである絵を描いてほしいと頼んでくるんですね。

それがなんと、禁制のマリア像。

大店の主人も娘もキリシタンだったのです。

描いてくれないと正体をばらされる、というので、御庭番でありながら、主人公はやむを得ずマリア像を描くことになります。

マリア像が完成したころ、大店の主人のほうでも御庭番の探索に力を貸してくれて大方任務は完了するんですが、絵師の部屋に曲者が乱入して、絵師をかばった娘が殺されてしまいます。

娘は、絵師の無事を確認して、うっとり彼の顔を見ながら亡くなるのですが。

殺したのは、娘に横恋慕していた藩の要人の息子。

主人は娘の葬式が済み次第、御庭番に数々の証拠を握らせて江戸に旅立たせ、旅先で、主人公は、主人が娘の敵を討ったことを知り復命するんですが、行きに渡った川を渡りもどるとき、もし自分が娘を助けなかったら、それは彼女の幸せだったのか、不幸せだったのか、と想いを馳せるのです。

復命したのちは、風の便りで、キリシタンが処罰されたことを聞くんですが、この探索以来、彼が筆を折ったというお話。

なんか、謎解きはいつも、半七譚は偶然に助けられるんで都合がいいんですけど、情緒がいいんですよねぇ。

ついつい、この旅絵師を岡田くんで夢想した、なんてわけでした。