関ケ原。
昨日なんとなく流し聞いた「英雄たちの選択」は井伊の赤鬼中心の話でしたね。
歴史をいろいろ見てくると、どうしても戦略・戦術を少しかじらざるを得ないのだけど、戦争にはセオリーというものがあって、戦術でいかに劇的にあり得ない勝利を収めたように見えても、実は戦略で優っていることの多いものです。
戦術というのは、戦闘の場での指揮能力や陣形能力など。
戦略というものは、そも、戦闘に至るまでの下準備や舞台設定といいますか。
一見、石田三成の戦略はよくできたものだったのですが…。
劇的な勝利というと、よく桶狭間の戦いが取り上げられますよね。
戦略的によく言われている話をざばっと解説すると、今川は軍勢の数や領国の勢いで優っていたんですね。どう考えても織田家が不利でした。ので。
今川家は慢心して相手が向かってくるとも思わず、桶狭間という地理的に非常に不利な場所で陣を張ってしまいます。それが戦略的敗因です。
戦略を練って戦場を設定するにあたり、軍勢が大きければ大きいほど、舞台は広いほうがいい。狭い場所では多くの兵員を活かせないからです。
狭い場所では軍勢は長く伸びて、本陣への手勢が手薄になる陣となる。
そこに、天候不順をついて、織田家は奇襲をかけたわけですね。
来るわけがない、と思っていた隙をつかれ、あろうことか、本陣の大将が討たれてしまったのです。
歴史の動いた瞬間ですね。
その昔、三国志演義でも語られましたが、劉備は部下の弔い合戦で大軍を率いて出かけますが、やはり細長い地形で陣を張り、負傷して命を落とします。
諸葛孔明が、何が聡明な主君の慧眼を曇らせたのか、と嘆くシーンは有名です。
聡明な劉備が、そんな地形で陣を張る、というのはあり得ない落ち度だったんですね。
また、逃げ場のない場所というのは陣を張るところではありません。
源氏と平家の戦いの時、一ノ谷の戦いでは、平家は海を背に陣を張っていました。
船でいつでも逃げられる、と考えていたからかもしれませんが、敵が一気に攻めてくる道がなかったからなんですね。
海を背にして一方は断崖絶壁。安心して休息していたところに、ありえないことに源義経は鹿も通わぬ、という崖を馬で駆け下りて奇襲をかけます。
油断もあり、海を背にして戦うのは不利だという心理が働いてか平家は総崩れで敗走することになります。
一方、逆手にとって、背水の陣で勝利を収めた例もあるのですけどね。
中国の漢を興した英雄劉邦の将、韓信は、少ない兵力で趙という国を落とそうとします。
趙は大軍をもって国を守ろうとしますが、大軍なので、細い道を通って進軍してくる韓信の弱みに付け込まず、正攻法で迎え撃とうとするのですね。
韓信は川を背にして陣を張り、趙軍を誘い出します。
戦のセオリーも知らないように見える韓信に、趙軍は一気に城を出、殲滅作戦をとります。
しかし、韓信の兵は逃げ場がないため、この場合は逆に必死で戦い抜くのです。
大軍が少数の軍にてこずっている間に、韓信の別動隊が、手薄になった趙の城に、大量の漢軍の旗をもって攻めかかるのですね。
敵の総数が読めなくなった趙軍は、城をとられ、挟み撃ちになることを恐れて総崩れになった、というお話です。文字通り、「背水の陣」の故事となったいわれですが。
この、旗を大量に使うやり方は「軍師官兵衛」でも官兵衛さまが使っていましたが、要は、敵の心理をどう巧みに突くか、というのが戦略の要なわけですね。
そこに、作戦を可能にする現場の完遂能力が加わると、少数の敵でも多数の敵に勝つという奇跡が起こるわけです。運にもかなり左右される話ですけど。
関ケ原の東軍と西軍の布陣を見るに、詳しい人は戦いのはじまる前の陣は大抵石田三成の勝利を確信するそうです。家康の陣を囲んで包囲する陣が巧みに構成されているんですよね。
ところが、開戦して動かない味方や裏切る味方が出てくると、一気に形勢が逆転して、石田三成の陣が包囲されて殲滅されていくのがよくわかります。
家康は、その戦略眼で巧みに調略に動いていたのですね。とはいえこれも運。
義に生き、大義を掲げる石田三成には、時代の趨勢や人間の心の機微、その闇が見えなかったのかもしれません。
彼の戦略がどう組まれ、それがどう破綻してしまうのか。
そして、戦略が崩れたのち、優れた戦術眼をもってしても覆せない敗戦の運命を、石田三成配下がどう受け入れていくのか。
前も書きましたが、石田三成配下はよく戦います。
味方が全滅するまで戦う。
負けるとわかっていても戦うのをやめない。
これって、ほかの国の戦いでは、宗教戦争以外、あんまり見られない傾向のような気もするんですがね。
もし、ここで三成が討ち死にしていたら、後世の評価も違っていたかもしれません。
なぜ彼は落ち延びることを選んだのか。
また、関ケ原は三成退却後が面白い。
映画でそこまで描写はないかもしれないけど、激しい退却戦を繰り広げる島津勢に追いすがる、井伊の赤鬼の負傷まで見届けたいところです。
関ケ原の戦いは、その後の歴史に大きな影響を与えたと思っています。
250年に及ぶ江戸太平の世を生み出した原点であり、この戦争のない江戸時代に発展した庶民の文化が今のクールJAPANの原点となります。
また、東軍と西軍に属した大名の、徳川の世での処遇が、その後の幕末における討幕運動、そして明治維新に繋がっていきます。
東軍で奮戦した井伊家は、その働きが認められ、代々幕府の老中を務める筆頭家になりますが、幕末に安政の大獄で弾圧を敢行し、結果、井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されます。
西軍でしんがりを務めた長曾我部は、四国の領国を「功名が辻」で有名な徳川家譜代の山内家に奪われ、旧長曾我部臣下は身分差別に苦しみ、坂本龍馬の誕生を迎えます。
そして同じく西軍に属した島津、毛利は、平等な世の中を夢見る坂本龍馬の仲立で、薩長同盟を結び倒幕の大きな原動力となるのです。
あら、「関ケ原」も「功名が辻」も「竜馬がゆく」も全部司馬遼太郎だわ。
ついでに、前述の背水の陣もおなじく司馬作品「項羽と劉邦」に出てたかも(笑)。
私って意外に司馬チルドレン。
思い返せば、義経も黒田官兵衛も、司馬遼太郎は描いていますね。
「燃えよ剣」も面白かったし。徳川家康や長曾我部元親が主人公のもあった気がする。
どれ読んでも主人公がカッコいいんじゃなかろうか。
同じことを違う目線から描いて、どっちも主人公がカッコイイよかったら、司馬遼太郎ってどんな心をしていたんでしょうねぇ…。
関ケ原冒頭で、左近は三成のことを「かわいい」って思っちゃうんですよね。
ちょっと司馬作品には私のBL心をくすぐる要素もあります(笑)。
男女の機微も面白くて、虞美人が好きになったのなんか司馬作品がきっかけかもです。
「燃えよ剣」は是非、岡田くんにやってもらいたい。
石田三成が秀吉のもとで行った太閤検地や刀狩りは、当時の生産能力の向上や治安の向上に寄与し、社会を安定させました。
その後の江戸時代の安定の礎になったと言えると思います。
彼が領民の信頼を得て供養を得たことは彼の人柄をうかがわせますね。
どんな時も、歴史は勝者が語る言葉で綴られていくものですから、時に敗者に光を当てた時こそ、さらに深い歴史に触れることができるのかもしれませんね。