昨夜のgrowinglead、面白かったですね。
やっぱ、大英自然史博物館展、見に行かんと…。
国外不出の標本の数々や、大好きな宝石たちが待ってるわ(笑)。
ラジオのお話聞いてて、今回来ている始祖鳥の標本がいわゆる「タイプ標本」であることにはぶっ飛びました。
タイプ標本というのは、その種が認定されるとき基準となると定められた標本で、未来永劫、人類がある限り、何か新種が発見されたか確認する場合などに、必ず必要とされる標本です。
始祖鳥においては、新しく始祖鳥らしい化石が発見されたとき、その標本と照らし合わせて同種がどうかを判断するわけですが、これが、その研究において何物にも置いて根本となる作業であることは間違いありません。
もしこの標本が失われたり欠損することがあれば、それは人類史上、取り返しのつかない損失となります。
そ・れ・が、はるばる英国から運び出されて、東の果ての日本に展示されているってことが、どれくらいものすごいことなのか、推して図るべし、ですよ…Σ(゚Д゚)
岡田くん、よく聞きだしてくれた!
特に、今回のゲスト、上野国立科学博物館の副館長さんが見てほしい、とおっしゃる標本が、前回も触れた、スコット探検隊の南極での植物標本。
南極が、数千万年前には緑茂る豊かな大陸であったことは既に定説となっていますが、この分野の研究の最初の標本が、このスコットが命を落としながらも手放さなかった今回展示の標本なんですね。
南極の氷、どれくらいの厚さがあると思います?
なんと、厚いところじゃタイタニックが沈んでいる深海と同じ程度あるんですよ。
数千メートルの氷の下には、南極の豊かな時代の痕跡が残っていると言われていますが、その氷の上歩いて、植物の標本が見るかる確率ってどのくらいなんだろう。
スコットには、これを見つけたとき、その貴重な価値がよくわかったことでしょうが、南極探検に向かって、ただ行くだけでも大変なのに、いくら貴重と言っても標本集めます?
スコットは自分たちの生存確率が限りなく低いことを悟りながらも、16キロもある標本を手放さず遭難するんですから、もう、なんて言っていいかよくわかんないくらい切ないですね…。
スコットは軍人であり、南極探検に赴いたのは、イギリスという世界帝国の、国家の威信をかけた国家的事業という側面もありました。
スコットが南極を探検するのは二度目で、もともと、第一次探検も学術調査を兼ねていたため、最初の探検で目星をつけた標本を収集するのも重要な目的だったんですね、きっと。
スコットとアムンゼンの南極点到達競争は、アムンゼンが勝利しますが、南極の海岸からいざ内陸に出発するときは、どちらかというとアムンゼンが不利でした。
直線距離でいえば、スコットの方が100キロも不利でしたが、アムンゼンが選んだルートは距離こそ近いものの、前人未到の道の土地で、途中まで調査済みのスコットのルートからするとバクチに近いものだったのです。
しかし、これが幸運の女神のほほ笑みか、アムンゼンは天候に恵まれ、しかも未踏の地は犬ぞりを走らせやすい平坦な地が多かったのです。
それに比べると、スコットは夏場では異例のブリザートに行く手を阻まれ、採集も兼ねているので一直線に南極点を目指せません。
お互いの装備の違いがさらに明暗を分けることとなります。
単純に、植村直巳のような探検家であったアムンゼンは、それまでの紆余曲折の探検人生の中で、イヌイットから極寒の地での越冬の仕方や生き抜く術を伝授されていました。
進む方法は植村直巳と同じく犬ぞり。もしくはスキー。
また、装備の重量を減らすため、食糧は現地調達も視野に入れ、最終的には犬ぞりの弱った犬も食料にすることも考えていました。
それに比べてスコットは、当時イギリスは動物愛護の精神を前面に押し出していたためか、第一次探検で、犬ぞりに失敗したためか、犬を主力に使うことを避けます。
代わりに主力としたのは、文明の利器、動力付きのそりと、なぜか、寒冷に弱いのに馬。
馬肉や犬肉を口にするのはとんでもないことだったので、当然、食糧の分量はかさみ、おまけに、動力のための燃料と、現地調達の敵わない馬用の飼料も必要でした。
運悪く、というか見込みが甘かったというか、南極のとんでもない気候のせいかいくらも進まないうちに動力は凍り付き、馬は寒さで死んでしまいます。
長い行程を、スコットたちは自力でそりを引いて進むことを強いられてしまうのです。
当然、予定が遅れ、食糧の欠乏が起こり、やっとのことで到達した南極点では翻るアムンゼンの立てたノルウェーの国旗にひざを折ることになります…。
もはや、帰国が困難であることを悟りつつ、スコットたちはそれでも、貴重な標本を手放そうとはせず、標本を収集し続け、日記をつけ続けます。
翌夏に救援隊がスコットたちの遺体を発見した時、スコットが大事に保管していたのは、標本と、アムンゼンが南極点に一番乗りしたことを示す手紙でした。
スコットたちの服の装備もね、アムンゼンたちがイヌイットの伝統にのっとったアザラシ毛皮の装備を身にまとっていたのと比べると、牛皮を重ねた防水性能の低いものでした。
でも、その当時のヨーロッパでは最先端の装備だったんだよね。
寒冷地のイヌイットの伝統と、イギリスの文明の先端との勝負でもありました。
同じイギリスの英雄、岡田くんの映画「エヴェレスト神々の山嶺」で取り上げられたジョージ・マロリーはスコットの死後12年目に、エベレスト初登頂の謎を秘めて消息を絶ちます。
その頃のイギリス人たちは今にもまして勇敢だったんだなぁ。
私は、子供のころからアムンゼンの伝記から南極探検を見つめているので、アムンゼンサイドから見ることが多いんですが、今回はスコットサイドからも眺めてみました。
志半ばで亡くなるものの、すごい人であったことは間違いないっすね…。
さて、最後に触れておきたいのは、そのころ、日本の白瀬隊も同時期に南極点を目指していたこと。
この白瀬中尉の伝記も、また紆余曲折の探検記であるうえ、ある意味、アムンゼンやスコットより悲惨で無情なものではあるんだけど。
絶対無理だけど、やってみなくちゃわからない、という挑戦のお手本のような感じもします。
前記の両者とはくらべものにもならない貧弱な装備で白瀬中尉も南極に向かい、スコットが南極点に到達したころ、ようやく、南極大陸に船をつけます。
接岸に適した場所を探すのにさまよう最中、帰国するアムンゼンとすれ違ったり。
どうにか上陸して南極点を目指すも、たいして進めないうちに得るところなく帰国を余儀なくされます。
このころの日本の探検というか軍部の気風というか、は、これを遡ること10年ほどで、あの「八甲田山死の彷徨」(映画では「八甲田山」主演高倉健)が起こっていることを考えると、ほんと無理に無理を重ねてる感じなんだけど…。
帰国のうちに、隊員の結束は無理がたたって空中分解したうえ、晩年はあまりにも侘しいものでした。
ただ、戦後すぐに、敗戦国として様々な嫌がらせや妨害を受けつつも、日本の南極探検が国際社会に許容されたのは、白瀬中尉のこの実績があったからともいえるわけで、命がけの無謀な挑戦も、やはりのちの世の歴史には連綿とつながっていくわけですよね。
この、戦後の日本の南極探検もとい、南極観測隊の物語は、高倉健の「南極物語」、もしくは木村拓哉の「南極大陸」でお楽しみください。
「南極物語」。
岡田くんの「永遠の0」以上の興行収入を持つ実写映画は、日本では五本だけですが、これはその中の一本。
あのテーマソングとともに駆け寄ってくるタロとジロは、映画史の金字塔たる不朽の名場面ですよね。
岡田くんもラジオで指摘してましたけど、確か、ジロの方は上野国立科学博物館の日本館で常設展示されていると思います。
「大英自然史博物館展」をご覧の折は、少し常設展示も眺めて、話のタネにジロも見てみてはいかがでしょうか(^^)。