アタマの言葉とココロの言葉 | アバウト福田のこんな感じ

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インターネット活用コーチ 福田浩です。
コーチングのこと、インターネットのことなど、思いつくままにお話しします。

夢をカタチに インターネット活用コーチの福田浩です(^_^)v

 

姪っ子がズボンのボタンを付けてくれました。

部屋に聞こえてくる姪っ子とお祖母ちゃんの会話を聞いていると、どうもゆるく付けてしまったりしていたようですが、僕が見たときは立派に出来ていました。

出来ることが増えてくると言うことは、素敵なことですね。

 

今日は「アタマの言葉とココロの言葉」というお題にしました。

こんなお題だと、いくつか違った話が出来るなぁ。。。まぁ、それはまた別の機会にするとして。

 

この本を読んでいたときにね。

 

最初に「言葉」についての議論があったんですね。

要するに「宗教の言葉」を定義しておこうと言うことで。

 

例えば、創世記で神が世界をお作りになったというとき、それを「科学」の言葉で受け取ると、それは可笑しいとか、いやビッグバーンから地球が出来て生物が発生し進化するさまを言い表しているスゴいことなんだとかね。

それを「宗教」の言葉で受け取ると、そこにはまた違った意味が出て来る。

 

このように「科学の言葉」が代表するような、客観的に検証可能な言葉、この本では「情報言語」と呼んでいますね。

一方で、語り手が自分のことを語る、例えば「頭が痛い」というような、それを聞き手が「自分のこと」として感じる、「あぁ、自分の経験したことのあるあの感じを彼は感じているんだ」みたいな。こういうことは「客観的に検証できない」わけですね。こういう言葉を「表現言語」と呼んでいます。

 

言葉の曖昧さはちょっと置くとして、「頭の言葉」と「心の言葉」と僕は呼びたいなぁと思っています。。

 

頭の言葉というのは「理解力」があれば「分かる」。しっかりと粘り強く説明すれば分かる。

そして、分かったかどうかは「テスト」をすれば確かめることが出来る。

学校で習うことは、テストを前提とする限り、こういう「言葉」だというと言い過ぎかなぁ。

 

心の言葉というのは、少し違う。

痛いと感じたことのない人には、「頭が痛い」と言われてもよく分からない。

でも、その場では分からなくても、いつか「あれはこういうことだったんだ」って分かるかも知れない。

 

僕自身は技術者だったこともあり、頭の言葉の人だったかも知れません。。

コーチになってから読む本も変わってきてね。あるいは会話の内容も変わってきて。

心の言葉ってあるなぁって思う。

 

心の言葉というのは、その場では分からないことが多い。

ただ、その言葉を聞いて、その言葉が心に残って・・・受容体というのかな。レセプターが開くというのか・・・無意識のうちになにかと出会ったときに・・・あぁ、アレか!って思う。

それもまた、新たな出会いとともに、やっぱりコレか!と考え直したりね。

答えは二転三転する・・・というよりも絶対的な答えは無いのかも・・・日々問い続ける、日々味わう。。

心の言葉というのはそういうものだと思う。

 

学校では、頭の言葉を大量高速に処理する能力を「成績」と称するんだけれども。

僕は「心の言葉」の理解については別に考えてね。

答えを急がない、ゆっくりと「理解との出会い」を待つ。

そういうゆとりを持ちたいものだと思います。