体を無にすること勿れ | アバウト福田のこんな感じ

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インターネット活用コーチ 福田浩です。
コーチングのこと、インターネットのことなど、思いつくままにお話しします。

Blue Earth Projectエコカフェに触発されて、続いて思ったこと。

以前、清水寺の森貫首に聞いた話として「勿体無い」ということについて書いたことがあります。

「勿体ない」というのは、「体を無にすること勿れ」ということで、この中で「体」と言う言葉に一番意味がある。
日本人は、「体」つまり物に命が宿る、物にエネルギーを感じる。これは生物だけではなく、道に落ちている石ころにさえ、そういう感性を持っている。
その「体」を無にしてはいけない。それが「勿体ない」という言葉の意味である。

そこには、「物を大事にすることが良いことだよね」という考え方と同時に、「物を粗末にするとバチが当たる」という考え方があります。
「体」に対する畏れと言うんですかね。それが「勿体ない」の本質に有ると思うんですね。

物を粗末にすると、もったいないお化けが出るんだとか、目が潰れるんだとか、物が何年か経つと付喪神になるんだとか、迷信だと言えば迷信でしょうが。。。

ですから、勿体ないと言うことは、経済的な価値観というよりも、むしろ信仰上の理由だと思うんですね。

人が何かを消費すると言うことは、何かどこかで犠牲を伴います。
例えば、何かを食べると言うことは、何かを殺すと言うことに他なりません。
その自覚、そこにある畏れが「勿体ない」の裏に有るんじゃないか。そして、それは大量消費=自然破壊にNoをいう原動力じゃないかと僕は思います。

エコカフェでは、パーム油の生産のためにボルネオで巨大なプランテーションが行われオランウータンが被害があっているという話がありました。
じゃぁ、パーム油を別のモノ、例えば椰子油に変えれば良いかと言えば、それでは問題は解決しないでしょう。今度はヤシガニが同じ目に遭うだけです。

もっと違うところで、何かを変えなければ、僕らの無自覚によって自然は破壊されるでしょう。

しかし、ここまで書いて、ハタと思うんです。
これはむしろ世界に押し流されている抗いがたいことなんじゃないか。
日本人がこういう価値観を持ち得たのは、日本人が恵まれていたからじゃないか。

そう思うと、再び、暗闇の中に潜っていくような気がします。