今の仕事について、通算一年となった。私生活では、結構重い問題を抱えているが、それも、来月が山場である。今は、私生活の問題は、あまり考えず、一日一日を自分のできる限り、努力して過ごしている。
仕事は、いわゆる3kではあるが、最近、私は、この仕事が、気に入っている。
今日は、ある寝たきりのおばあちゃんのオムツのパッドを替えていて、しみじみ思ったことがある。
私が、この仕事が気に入っているのは、この仕事が、自分の精神を浄化してくれる仕事だからだ、と気がついたのだ。
自分が何をされているかよくわかっていないおばあちゃんに、私は、どれだけ誠意を込めてお手伝いさせていただくか、誰も見ていない密室で。家族の方からは、至らない点を指摘されるばかりだし、おばあちゃんも機嫌が悪いと罵倒やら暴力やらが出るし、上司が評価してくれるわけでもない、つまり、神さまの領域の仕事を任されているということを感じたのだ。
おばあちゃんの下着に便が少し付いていたから、綺麗な下着に替えたのだが、それをするかしないかは、完全に私の決断に任されていた。時間を取られることは承知の上で、それを行った。それを業務の遅れの言い訳にできないし、誰からもほめられない、また、今日も、至らない点を家族の方から指摘されんだろなーと思うと、自分は、つくづくお人好しだなと苦笑したものだが、そういう三次元的なことにとらわれていては、この仕事はやってらんないのだ。自己の精神性を高めるには、うってつけの仕事である。 
仕事をしていると、腹の立つことも多いが、仕事に救われることもある。私生活の悩みがある時も、仕事中は忘れられる。一晩寝れば大抵のことは水に流せる私にも、頭を離れない悩みはある。そんなとき、仕事中には、それを忘れていられることに気がつき、利用者家族からの腹の立つ一言もあるけれど、プラスとマイナスで言えば、仕事は、プラスになっている。
仕事しないのは、楽だとは言い切れないものだ。「お茶碗一つ洗わず、キュウリの一本も切らずに、今日も一日過ぎて行く。」と自嘲気味に、あるおばあちゃんが、たまにつぶやく。その言葉を聞くたび、一体私は、何を目指してあくせく働いているのだろうと思う。体が思うように動かなくなっても、できることはあるのではないか?しかし、することもなく、私には、彼ら一人一人に生き甲斐を提供することはできない。
私は、彼らによって仕事を与えられ、私生活の悩みから解放されている一方で、することもなく、暇をもて余している彼らは、どうしたらいいのか?そんなことを考えると、私は、一体何をしているのだろうと思うのだ。
「これは私の業や」おばあちゃんは、うつむき、そして泣いた。「みなさんにこないにやさしくしてもろて」そう言いながら手を洗うおばあちゃん。一時間前に彼女は、トイレに入り、結構なお通じがあったようだが、彼女は一時間前のことを忘れていた。私が仕事に入ると、彼女は腹痛を訴え、トイレに座っていた。私は、ただ、彼女の曲がった腰をさすっていた。こんなことをしても、彼女の腹痛は治らないのにと、無力感を感じながら。「そうしてもらうと気持ちがええよ」彼女からの意外な一言に驚きつつ、素直に嬉しかった。いや、感動した。新入りで、口数の少ない、要領の悪い私に、彼女は距離を置いていた。慣れた職員には談笑する彼女は、私にはニコリともしなかった。ちょっと苦手なおばあちゃんだった。

私生活の悩みが、もうどうでもよくなった。この先どうなろうと、今私は、満たされているからいいんだと、どうでもいいというより、吹っ切れた。

これも私の業だ。私こそ彼女に救われた。