「富貴は危険の中に求め、また危険の中に失う。求める時は十に一つ、失う時は十に九つ。」これは世を覚ます永遠の言葉であり、その言葉は善く、その理は極めて深い。しかし千年の後、前半のみが残った。世の人は皆、富貴が危険の中に求められることを知っているが、危険の中で得たものもまた危険の中で失われることを知らない。そのため、常に麻縄の細い所で富貴を求める。なぜこうなったのか?それは世の人が読書を細かくせず何かを見落としたのではなく、見ていても見ていないのだ。これは人の共通の性質であり、世の人は皆、自分を慰め許す言葉を好み、自分を責め叩く言葉を好まず、真実の言葉を好まずに諂いの言葉を好む。
そのため、古の聖人の言葉を見る時、自分に使えるもの、自分の喜ぶものだけを取り、自分の聞きたくないもの、自分を刺すものは、見ても見ないふりをして捨てる。人と話す時も枝葉を取り去り、頭尾を削り、自分を爽快にさせるものだけを残し、自分を傷つけるものは言わない。そのため千年の後、後半は存在せず、世の人は一つを知るのみで、二つを知らない。富貴が危険の中に求められることだけを知り、この分不相応の財もまた危険の中で失われることを知らない。得る時は十に一つ、失う時は身命さえも保てない。これは波旬の傑作であり、魔王波旬が聖賢の言葉を少し調整すると、その意味が大きく変わり、世を諭す言葉が命を催促する言葉となり、分を守る人が貪欲な鬼となる。
世の人がもしこの理を知れば、必ず分不相応の考えが少なくなり、自分の運命にない富貴は、それを取れば大凶であり、たとえ幸運にも得たとしても、必ず他人に取られることを知るだろう。策略で得た富貴は、事に臨んで必ず手放さず、死ぬまで放さないので、必ず刀の下の鬼となる。もしこの理を知る者がいれば、本分を守り、他人の財を欲せず、罠を仕掛けて生命を害することが少なくなり、そのために命を落とすことも少なくなり、自他ともに幸いなことだ。しかし世の人は皆知らない、悲しいかな。
私は仏門に数十年浸っているが、修行者が聖賢の教えに対しても同じようなことをしているのを見てきた。自分を爽快にさせるものは残し、自分を痛めつけるものは取り去る。残されたものは何か?私には分からない。今や画面は去勢された言葉、根拠のない言葉で満ちている。発する者は喜び、聞く者は歓喜し、その楽しみは融け合っている。三世の仏を悲しませ、如来の教法が難に遭っていることを知らない。
霊山の隠者 2024年7月6日 記
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