キリスト教徒たちは、告解という形で罪を許しを請うている。彼らは司祭のもとを訪れ、心の奥底にある秘密を打ち明ける。その内心の秘密が外に漏れることを恐れる必要はない。キリスト教の規則により、司祭は彼らの告解内容を守秘する義務を負っているのだ。あなたは司祭に対し、自分でさえ正視するのを恐れている罪、認めたがらない罪、妻にすら打ち明けられない秘密の罪すべてを告白することができる。

 

このような手順を経た後、あなたは相応の解放感を覚えるだろう。キリスト教の儀式の一部は仏教密教の影響を受けたと考えられており、両者には著しく類似した点が存在する。私は告解という形式は極めて優れていると考えている。もし仏教の教えを編纂できるのであれば、必ず告解の作法を取り入れるだろう(この話題は保守的な仏教徒を不快にさせるかもしれない)。告解は、少なくともある一時的な瞬間において、自己を真摯に見つめ直すことを可能にするからである。

 

私たち人間は、しばしば自分自身を欺いている。「この行いは相手のためになる」と自分に言い聞かせる。そして自分の動機は純粋であると信じ込むのだ。しかし事実が本当に自分の認識通りなのかどうかは、自分自身にしかわからない。私たちには認めたくない罪、認められない罪(その罪を認めれば自分自身に正面から向き合えなくなる)がたくさんある。時として、懺悔の際さえそうした罪を認めることはできない。些細な罪は懺悔するが、本当に懺悔すべき重大な罪は意図的に避けてしまう。自分がかくも大きな過ちを犯したことを受け入れるのは難しく、様々な理由をつけて自分の行為を正当化しようとする。しかし深い内面では、それが間違いであったことを知っているのだ。本当に勇気を持って自分自身を見つめ直せる人がどれほどいるだろうか。私たちは他人を審視する時間の方が長い。しかし本来の懺悔の意味は、自分自身を仔細に見つめ直すことにあるのである。

 

自分自身に正面から向き合えない人がいることは承知している。多くの者が金剛薩埵の修行を実践しているが、その効果は乏しいようだ。たとえ百万回も百字明を唱えたとしても、なお深い業障を感じずにはいられない。私は彼らに、自分が本当に懺悔をしているのかどうかを注意深く見つめ直すよう促している。私たちは自分自身を欺きがちなのだ。もし間違ったことをしてしまえば、すぐさまそれを正当化する種々の理由を見つけ出す。最終的には、自分でさえ本当に善行をしていると信じ込んでしまう。自己というものは、このように悪しき行いを善行に置き換えてしまうのだ。もし自己がいつもそうしていれば、罪を懺悔し尽くせると想像するのは難しい。なぜなら、そもそもそれを罪だと考えていないからである。自分の業障は意図的に隠蔽され、非難を避けようとする。私はこうした在り方をよく理解している。そうしなければ、おそらく誰も眠ることさえできないだろう。私たちは常に自己糾弾に直面することになるからだ。しかし、だからといってこうした有様を肯定しているわけではない。もし業障を懺悔しようと思うのであれば、自分に正直でなければならない。業障を浄化することを望むのであれば、自らの行為を正当化するような言い訳は控えねばならない。そうでなければ、あなたの懺悔はより効果的にはならず、かえって障害を作り出すことになろう。

 

かつて、ある人物が私に尋ねた。「懺悔したのに、また同じ過ちを繰り返してしまったらどうすればよいか」私は答えた。「過ちを繰り返しながら懺悔しないよりはましだ」汚れた衣服を洗うことは、放置しておくよりずっと良いのと同様である。凡夫である私たちには、過ちを決して犯さないということはほとんど不可能だ。しかし、少なくとも自分が過ちを犯していることに気づくことが何より重要なのだ。自らの過ちを認めるには並々ならぬ勇気が求められる。仏陀は、私たち衆生が避けられず過ちを犯すことをよくご存知だったから、金剛薩埵の修法をお教えくださったのである。聖者だって過ちを決して犯さないわけではない。聖者になる以前は、私たちと同じ凡夫だったのだ。

 

ある人物は、成仏する以前に、呪術を用いて多くの人々を殺害した。その名はミラレパである。彼の修行の物語は今なお、無数の仏教徒に啓示を与え続けている。またある人物も、仏陀に出会う以前は多くの人々を殺害していた。ある者から「1000人分の指骨を集めれば王になれる」と告げられ、999本の指骨を集めた時に仏陀と出会った。仏陀に教えを受け、この人物は悟りを開き、結局は阿羅漢の境地に至ったのである。その名はアングリマーラといった。『五燈会元』にはその逸話が述べられている。しかし、私が過ちを勧めているわけではない。過ちを避けられるはずの時に故意に過ちを犯すことは、最たる愚行であろう。できれば過ちは避けるべきだ。しかし、それは容易ではない。過ちを犯した後に懺悔する方がずっと容易なのだ。しかし、それでも過ちを避けることがより望ましい。

 

2010年5月24日に初めて公開された。

 

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灵山居士:忏悔的另一种意义