30歳になる前、よく人がやって来て、日常生活でどうしたら修行できるかと尋ねました。実際、日常生活で修行できるような人はどんな人なのかと尋ねるべきです。たとえ方法を教えても、実行できない人がほとんどだからです。多くの修行者にとって、修行中に修行できること自体すでに十分優れているので、日常生活での修行を考える必要はありません。 私のように、生まれながらに仏法のために存在している人で、人生に仏法以外のものがない人でさえ、日常生活で修行できるようになるのに長い年月がかかりました。日常生活を修行に変えていくのもゆっくりとしたプロセスでした。

 

日常生活で修行するには、非常に強力な覚知力、洞察力、省察力、修正力、意志力が必要です。これらを備えているときにのみ、自分に起こるあらゆることが洞の如く事態がよく見えます。まず、仏教の修行過程全体を理解し、修行中に何が起こるか、起こったときの対処法を知っている必要があります。理論や実践方法の理解だけでなく、経験から得られるものも多くあります。痛い目に遭わないと分からないこともあり、経論を読むだけでは分からないこともあります。また、本当に仏教的な見解を身につける必要がありますが、これには本当に何年もかかります。ある見解を聞いて、納得したからといって、本当にその見解を身につけたことにはなりません。両者の間には、おそらく100兆光年ほどの開きがあります。さらに、「自我」のさまざまな策略にも十分に慣れておく必要があります。そうでないと、惑わされてしまいます。しかし、これにも時間と経験が必要です。たくさんの失敗を重ね、壁にぶつかり、落とし穴に落ち、辛い思いを経験しなければ身につきません。強力な気付きの力も必要です。身体、言葉、心を絶えず点検し、一つ一つの心の動きが見える必要があります。座禅している静かな時間だけでなく、座禅の外の騒がしい環境でも、心の動きがはっきり見える必要があります。例えば、人と口論している最中、意思疎通が上手くいかず行き詰っている時、仕事の途中で歩きながら食べている時、受け入れがたい知らせを突然受けた時など、どんな時でも自分の心の動きが見極められる必要があります。どの考えの根底に貪りや瞋恚があるか、どれが慢心か、魔が仕掛けた落とし穴なのか見分け、貪りや瞋恚や痴に流されず、その場で転換でき、魔の罠に陥らず、陥ったとしてもすぐに抜け出せる必要があります。自分に対して100%正直であることも大切です。 このようなことができる人ってどのくらいいるでしょうか。

 

こうした条件を満たしているときにはじめて、日常生活の中で修行ができ、日々の生活を道に変えることができるのです。高い境地に達した修行者が心がけるべきなのは、また世俗の中に入ってしまっていないか、能所二取に陥っていないか、自分と周囲の存在を真実であると看做してしまっていないかを点検することです。

 

さきほど述べたようなさまざまな力は、多くの修行者は一つも身につけていないのが実状です。気付きの力だけでも、何年もの座禅の修行が必要です。 非常に優れた人で、今のような分心の多い環境下で、本当の師に出会い、きちんと指導してもらい、指示に従って真剣に修行し、ふらつきながらでも前に進んでいけるのであれば、20~30年の修行でこうした力が身につく可能性があります。

 

この文章は2021年10月17日に霊山の隠者のSina Weiboで最初に発表され、Google Bloggerや他のSNSでも発表されました。著作権は発表者にあり、許可なく転用することを禁じます。

 

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灵山居士:在生活里修心需要的条件

 

在我三十岁之前,经常会有人跑来问我怎么在日常生活里修行?其实他更应该问的是什么样的人才能在日常生活里修行。因为即便我告诉他他也做不到。对于很多修行者来说,如果他们能在修行的时候修行就已经很不错了,就不要老是想着在生活里修行了。像我这样的人,生来就是为了佛法而存在的,我的生命里除了佛法没有别的东西,但是即便我这样的人也是花了很多年时间才慢慢做到能够在生活里修行,才慢慢能够把日常的生活转化为修行。

在生活里修行,这需要极其强大的觉知力、洞察力、反省力、纠错力、和意志力,只有具备这些,你才能对发生在自己身上的一切洞若观火。首先,你需要对佛教的修证过程有通盘的了解,知道修行的过程中会遇到什么,也知道遇到了要怎么解决,我说的不光是对理论和实修方法的了解,有很多东西是经验的产物,那是吃了很多亏才会知道的,不是读读经论就能知道的。还有你必须真正具备佛教的见地,这一点其实要很多年才能建立,听闻过一个见地认可一个见地和你真正具备这个见地之间大概隔着一万亿光年。然后你还要对“自我”的种种伎俩非常熟悉,才能不被他所转。但是这一点同样需要很多时间和经验,你需要摔很多的跟头碰很多壁掉进很多坑吃很多苦头才可能具备。你还要有很强的觉照力,能时刻审视自己的身语意,能看到自己的每一个起心动念,不止是在座上那些很安静的时光。在座下,在那些纷乱嘈杂的环境里也能看到自己的每一个起心动念,对自己内在发生的一切洞若观火。譬如在和人吵架的时候,在和别人沟通说不清道理词穷的时候,在上班的路上边走边吃的时候,在突然接到一个难以接受的消息的时候,在任何时候你都要能看到自己的起心动念,能分辨出哪些想法的背后是贪,哪些是嗔,哪些是我慢,哪些是魔罗给你挖的坑,能够不被贪嗔痴带着走,能够当下扭转,能够不掉进魔罗设计的陷阱,或者即便掉进去也能很快爬出来。你还要对自己百分之百坦诚不自欺。你觉得有多少人能做到上述这些?当你具足这些条件的时候,你才能够在生活里修行,才能够把你的日常生活转为道用。如果是那些修到很高境界的修行者,他们需要关注的是自己是否又落入世俗的显现了,是否又落入了能所二取,是否又把自己和周围的一切当做真实存在了。刚才说到的那几种力,很多修行者恐怕一个也不具备。仅仅觉照力你就需要很多年的禅定功夫。如果你是一个非常厉害的人,在今天这种环境下,在这个到处都充斥着分心事物的时代,如果你还能够遇到真正的老师,如果他能真正的教你,如果你能听话,能真正的修行,能一直晃晃悠悠的往前走,那么你大概修二三十年可以具备。

 

本文于2021年10月17日首发于灵山居士新浪微博,谷歌Blogger及其他自媒体。版权所有,侵权必究。