施身法はダンパ・サンゲから始まった。彼はチベット仏教シェ派の開祖である。チベットの古いタンカを見たことがあれば、大きなひげを生やし、ほとんど衣服を身につけず、手で太鼓を持った男性として描かれているのを見たことがあるだろう。多くの達成者たちは、彼こそが私たちが言う中国仏教の達摩祖師なのだと認証している。漢地での教化の事業を終えた後、チベットを経由してインドの聖地に戻ったが、途中チベットに長く滞在し、シェ派を開いた。

 

今日、チベット仏教の宗派について語るとき、シェ派の名前を耳にすることはめったにない。ニンマ派やゲルク派、サキャ派の名前を知っているが、シェ派の名前を聞いたことがない人も多いだろう。しかし、施身法(断法やチョという名前でも知られる)を聞いたことがある人は多いはずだ。

 

言い伝えによると、ダンパ・サンゲは施身法を弟子のマチク・ラブドゥン(チベット仏教史上最も偉大な女性修行者の一人と見なされている)に伝え、今日に至るまで受け継がれている。

 

仏教のすべての方法は、直接的にも間接的にも我執を攻撃することを目的としているが、施身法も例外ではない。しかし、その内容は幾分恐ろしげに聞こえる。多くの現代人にとって、施身法はチベット仏教の野蛮さや原始性を象徴するものだと考えられがちだが、これは仏法への理解が著しく欠如している証左である。

 

施身法の中で一般的に求められるのは、自分が金剛亀女に変身したと観想し、自分の身心が限りない甘露に変わったと観想した上で、仏や菩薩や護法たちや世俗的な鬼魅たちに自分の身心を供養し、大いに喜ばせることである。これは我執を断つ最良の方法の一つと見なされている。自分が最も大切にしているものを布施する。自己を布施するのだ。

 

自分自身よりもっと大切なものがあるだろうか。自分の身体の手入れに、どれほどの時間とお金を費やしていることか。しわができないようにと必死でお金を稼いで、しわを防ぐと言われる化粧品を買っている。お金を稼ぐためなら人を殺すことさえいとわない。その大切にしていた自分の身体を今度は他人の餌食に供することになる。自分の苦しみのすべてがこの身から生じていることを認めざるを得ない。

 

今日私が語りたいのは施身法の詳細ではない。施身法についてよく分からないことがあればググってみるか、口伝を求めることを勧める。『グル・リンポチェの教え』に詳しい説明がある。ここで語りたいのは日常生活でどのように施身法を修するべきか、ということだ。施身法を単純に自分の身体を切って鬼神に捧げることだと理解してはいけないが、そう捉えている人は多い。自分はずっと施身法を修業している、と言う人もいる。瞑想の中で自分の身心を鬼神に供養して喜ばせているが、大変助けが必要な人に自分の少し時間を割いてやろうとはしない。そうした人に出会うと、ただ残念な気持ちになる。「あなたの施身法の修業はまだ足りない」と言う他ない。

 

もちろん、修法している最中に誰かに歌を歌うよう頼まれて断ることは正しい。その時は施身法を修することはできない。自分の利己心がこうした場面を利用することを注意深く見極める必要がある。例えば、毎日の修行の時間に突入したときに伴侣から『俺の斜陽』を一緒に観ようと言われて面倒に思っていたとしよう。やっと修行を怠る口実が見つかった、しかもその口実はとても「仏法」に適ったものだ。「仏法では他人の方が自分より大切だと言っているではないですか。一緒に観に行きましょう。修行の時間を犠牲にしてでも付き合いましょう。これが施身法なのですから」などと自分に言い聞かせる。これは自分を騙していることに他ならない。

 

施身法をこのように修するべきでは決してない。施身法とは自分にとって有害なことであり、自分の利己心を打ち砕くものであり、本来したくないことをすることなのだ。自分に十分な時間と能力があるにも関わらず、人を助けることができる立場にありながらそれを拒絶する。面倒くさいと感じたから、やる気が起きなかったから、自分の身分にそぐわないと判断したからだ。他人を助けるとき、実は自分は施身法を修しているのだ。自分を他人に施し、日頃したくないと考えていたことをする。これが施身法なのである。鬼神に自分の身体を供養することだけが施身法ではない。本来したくないことをすることも施身法なのだ。

 

自分の足を切って虎に捧げるような本格的な施身法を一気に修することは不可能かもしれない。しかし小さなことから始めることはできる。一つ灯明を供養することから。日頃しようとしない小さな人助けをすることから。そうして積み重ねていけば、やがては自分の身体をアフリカの未開族に捧げることもできるようになるかもしれない。彼らに胡椒を振りかけられたりソースを塗られたりすることを喜んで受け入れることが。

 

もちろんこれらの言葉は賢明に解釈する必要がある。誰かに殺生を頼まれたからと言って殺生を正当化できるわけではない。本来したくないことを頼まれたとき、人はいろんな口実を並べるものだが、本当の理由は自分しか知り得ない。言い訳の理由どおりではなく、単にやりたくないから拒絶する。それが自分の利己心を不快にさせるからである。ダライ・ラマ法王は言っている。「自分のプライドと相反することこそが解脱への道なのだ」と。だからこそ、自分の利己心を不快にさせることに喜んで取り組めるのなら、それが施身法なのだ。

 

ある女性が私にこんなことを打ち明けてくれた。結婚しているが、修行のおかげで性行為に対する興味がほとんどなくなってしまった。しかし夫に迷惑がかからないように無理矢理そうした行為をしているが、それが気がかりだと言うのだ。私の考えでは、その行為自体を施身法と見なしてもいいと思う。本尊像に祈る仏法の行為は割愛しているものの、鬼神に自身の身体を捧げる修行と同様の効果がある。鬼神に身体を捧げるのと夫に身体を捧げるのと、そこに大した違いはない。

 

私たちが修行する目的とは我執を断つことにある。ところが利己心は執着の対象をジャドールの香水から修行へとすり替えようとする。このようなことが起こったとき「こんなことをすれば修行に支障が出るのでは」「修行はどうなってしまうだろう」などと考えがちだ。しかし大乗の菩薩が取るべき考え方ではない。大乗の菩薩は、自分のことを他人より大切に思うことが許されない。場合によっては、修行さえ捨て去る覚悟が必要である。ただし「場合によって」という意味を正しく理解する必要がある。修行を本当に捨て去るべき場面となるのは、極めてまれである。自分の修行を捨てることで多くの人を解脱へ導くことができる場合に限られる(ただしそれを口実に修行を怠けることは許されない。「衆生を利するために修行を捨てざるを得ないのだ」などと言い訳を並べるが、実際にはただ単に綺麗ごとを並べているだけにすぎない。注意が必要である)。大乗仏教では、自分のことを他人より大切に考えることは菩薩戒に反するとされる。

 

もちろんこうした問題については、慎重かつ賢明な判断が不可欠である。利己心が抜け道を探そうとすることを警戒しなければならない。利己心は隙あらばどこからでも忍び込んでくる。「自分には見識がある」などと判断している場合、すでにそこに利己心が入り込んでいるということである。もちろん修行は大切なことだ。この種の問題に対応するには賢明な判断が欠かせないし、うまく処理できなければ修行が台無しになってしまう。適度なバランスが必要なのだ。

 

霊山の隠者のブログ 2011年1月5日 に最初に投稿

 

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灵山居士:日常生活里的施身法

 

施身法来自当巴桑杰,他是藏传佛教希捷派的创立者。如果你看过西藏的古唐卡,在唐卡里他被描述为大胡子,穿着很少的衣服,手持手鼓。很多成就者认证他就是一般我们所说的汉传佛教的达摩祖师,他在结束了汉地的度众事业之后经由西藏回到圣地印度,途中在西藏呆了很久,并创立了希捷派。

今天我们说起藏传佛教的宗派,你很少听到希捷派。你知道宁玛巴,格鲁巴,萨迦巴,但你很少听说希捷派。但我相信你一定听过施身法(它还有一个名字叫断法或是古萨里)。

据说,当巴桑杰把它(施身法)传给女弟子玛吉拉尊(她被视为藏传佛教有史以来最伟大的女性修行者之一),并一直流传到现在。

佛教所有的法门都在直接间接攻击我们的我执,施身法也不例外。但它听上去好像有点恐怖。在很多现代人眼里,施身法会被认为代表藏传佛教的野蛮和原始,这恰好显示出他们对佛法的了解极度匮乏。在施身法里,一般你会被要求观想自己变成金刚忿怒母,观想自自己的身心变成无量的甘露,然后让佛菩萨空行护法和所有的世间鬼魔来会餐,大快朵颐。这被视为断除我执最好的方法之一。你要把自己最珍视的东西布施出去。把自我布施出去。

还有比自己更珍贵的东西吗?想想我们花了多少时间和金钱照料我们的身体,为了不让他产生皱纹,我们拼命挣钱去买那些据说能阻止皱纹生起的化妆品。为了挣钱,我们甚至不惜去杀人。就是这个我们非常宝贝的身体,现在却要把它拿去喂别人。必须承认我们的一切痛苦都是因它而起。

今天我不是要讲施身法,关于施身法假如你还不太了解可以去google,或是去请求一个传承。有本书叫《普贤上师言教》,那里面讲的比较细。我想讲一下你如何在座下修持施身法。你不应该把施身法简单地理解为把自己剁吧剁吧喂鬼神,但很多人就是这么认为。有些人一直在修施身法,他们可以在观想中把自己的身心布施给鬼神大快朵颐,却不愿意把自己的一点时间布施给那些非常需要帮助的人。遇到这样的人,我只能遗憾的说:你的施身法修的还不够好。

我当然不是指你在该修法的时候别人叫你去唱歌,你说我不去。这样的时候你应该拒绝。遇到这样的事这样做是对的。这个时候你可不能修施身法。要注意,你的自我会利用这些,你可能会钻空子,譬如当你的伴侣提出要你陪她看《让子弹飞》的时候你正在为每天的修法又要开始而烦,你终于找到一个不修法的理由,而且这个理由看上去那么“佛法”。你骗自己说:佛教说别人比自己重要。我陪她去吧,我放弃自己的修法时间去陪她,我是在修施身法。这是在骗自己。

施身法永远不是这么修的。施身法必须是对你有损害,对你的自我有打击,并且你不愿意去做的事。我指的是在你有非常充裕的时间和能力的状况下,在你可以帮别人的时候,你拒绝。因为你不想去做,你很懒,或是你认为做那个不符合你的身份。当我们去帮助别人的时候,我们其实就是在修施身法。你把自己布施给别人,从事那些你平时不愿去做的事。这就是施身法。不要认为把自己喂鬼才叫施身法。去做那些你不愿意去做的事也叫施身法。

你不可能一下子就能达到把自己的腿砍下来喂老虎的程度,但你可以从供一盏灯开始,从帮助别人做一件你一般不愿意去做的事开始。这样也许有一天你可以把自己布施给非洲生番。让他们在你身上撒胡椒粉摸酱油。

当然,你要智慧的去理解这些话,我并未说当某人叫你杀生的时候你可以去杀生。当你不愿意去做一件事的时候,你会为自己找很多理由,但真正的原因可能只有你自己知道,你不是因为你所说的理由,你只是不想去做。因为这令你的自我不舒服。宗萨钦哲仁波切说过:任何与自我自尊背道而驰的都是解脱道。所以假如你愿意去做那些令你自我不舒服的事。你就是在修施身法。

有个女孩子告诉我,已经结婚的她已经几乎丧失了对性爱的兴趣(因为修行的缘故),但为了不至于让丈夫和她翻脸还不得不去做这些,这令她烦恼。我的想法是你完全可以把这个当做你在修施身法。除了没有念仪轨,它和你修施身法的效果是一样的。你把身体布施出来喂鬼神吃还是喂老公差别并不大。

我们修行的目的就是为了断除我执,而我们的自我却把我们执著的对象从j’adore真我香水换成修行。遇到这样的事我猜你会想,如果我这么做了,会不会对我的修行有影响,我的修行怎么办?要知道,这不是大乘菩萨的应该有的想法,大乘菩萨永远不许把自己看得比别人重要。必要的时候你甚至要抛弃你的修行。注意,我说的是必要的时候。真正需要放弃修行的时候非常非常少,那只能发生在你牺牲自己修行可以促使很多人走上解脱道的情况下(但千万不要以此为借口不去修行。你会骗自己说我在利益众生,为了众生我不得不抛弃我的修行。但其实你只是为自己找了个看上去很美的借口。)在大乘里,假如你认为自己比别人重要,那表示你对菩萨戒有所违反。当然,你必须非常智慧的处理这些事。注意不要让自我钻了空子。它几乎无孔不入。假如你认为自己非常智慧,那么你就已经被自我钻空子了。你的修行当然很重要,这些事情真的需要很智慧的处理,弄不好你就会把修行毁掉。所以一定要拿捏好。

 

2011 1 5首发于灵山居士博客