紀元3世紀 高句麗による倭国支配の爪あと  | 新 HEX大社
■古代の極東事情


韓国の偏向教育では、古代日本(倭)は、百済が支配していた事になっている


朝鮮学校でも恐らく同様だろうが....


一方日本では、三韓時代、南部の任那が日本の支配の飛び地で南部朝鮮を実質支配していたと考えられている
これを任那日本府という.


     (日本の教科書)

神功皇后の三韓征伐も言われるが、戦った痕跡は、1韓のみと言われていて、神功皇后の実在性は疑わしい
神功皇后が百済から送られた縁起物の刀を、七支刀と言い石上神宮に保管されていたが、石上神宮自体は物部氏の氏神である
物部氏は当時倭国の半島遠征軍の主力であった

この時代、神宮と呼ばれた神社は、天皇家のプライベート神社である伊勢神宮と、石上神宮しか無く、物部氏の武器庫であった
物部系の祭祀氏族が、石上氏である。

物部は、満州のツングースである夫余出自の豪族と見られている

扶余(扶餘 フヨ、プヨ)族は、古代満州に分布したツングース系騎馬民族で、鹿をトーテムとし、自らを扶余(フヨ、プヨ=鹿)と称した。

扶餘国、高句麗、百済を建国した民族で、特に百済は一時期「南扶余」を国号としており、王族名は扶余氏で、首都も扶余だった。

百済(AD.346~AD.660)は滅亡時に、王族以下数千名が日本に亡命している。


日本の古史古伝には、外国使節と会見する場合、必ず通訳の存在が記述されている
ところが、百済との会見には、通訳の記述がない


百済滅亡時に、支配層の夫余人たちが大挙日本に亡命しているが、言語問題は起こっていない
それどころか、当時の文部大臣に当たる書司(ふみのつかさ)に就いた亡命者も居る

不可解極まりない


後漢書には3世紀頃の様子が記されている。

「南に辰韓,北に高句麗と沃沮,東は大海(日本海),朝鮮の東は皆、濊(わい)の地である。

 高句麗と同種で、言語や風俗も似ているが、服装は異なる。

 同姓結婚は認められない。

 前漢のとき、単々嶺の以西は楽浪郡が監督し、東部の七県は都尉が監督したが、

 やがて東部の都尉を廃止 し、その地の渠帥を諸侯に任じた。

 漢末には高句麗に属した。」

つまり、高句麗や倭は服装が異なるが、言語が同じだと記述しているのである


■日本最強の軍事豪族物部氏は、扶餘の末裔だった

物部氏は、満州のツングースである夫余出自の豪族と見られている
その系図には、扶余族の名前が幾つも見られる

夫余とは「ふよ」「プヨ」と言い、鹿を意味し、鹿をトーテムとする遊牧民族である
つまり、夫余にとって鹿は、神獣

日本は古来から鹿を神獣とする。
鹿島神宮、香取神宮、春日大社&東大寺などが特に有名で、律令時代は鹿を傷つけると重罪であった
奇妙な共通点である

また、夫余は、B.C.1C~A.D.5Cに存在し北夫余、東夫余に分かれて中国の歴史書に記述される

東夫余の金蛙王の庶子(妾の子)であった、朱蒙が、僅かな手勢と共に夫余を飛び出し、朝鮮の候王の娘と婚姻(後妻)し、建てたのが、高句麗(B.C.37~A.D.668)である
朱蒙の後妻の子たちが、高句麗を飛び出して建国したのが、百済である




■夫余の神話 「フル(フツ)」


物部の氏神である石上神宮には、フル(フツ)という神の伝承が伝わっているが、これは、夫余の神話そのものである

.......布都御魂(ふつみたま)大神を主祭神とし、布留御魂(ふるみたま)大神、布都斯魂(ふつしみたま)大神他四柱を祀る。

フル(フツ)は、扶餘に多い名前でもあり、表の初代高句麗王朱蒙の後妻の子である佛流(フル)もまたそれであるが、行方不明になっており、国土は兄弟の百済に併合された


韓国の学者の中に沸流は、日本に渡り応神天皇となり東征で日本を制圧したという説を唱えるものがいる

日本でも騎馬民族征服説を唱える者の中には、百済系の皇子がそれだと唱えるものが少なくない


中国の古代の史書によれば、これらの国々と倭の言語は同じであると記述されている
日本の古文献には、外国使節と会うとき、通訳の存在が記述されているが、百済との会見には通訳の記述がない

高句麗や百済は、多民族国家で、少数の支配民族が夫余系であった
支配下には、朝鮮土族(馬韓人・弁韓人など)や中国から逃げてきた辰韓人などを支配した

百済は滅亡時(A.D.660)に王族以下の夫余系支配支族が、全て日本に亡命している
百済の王族は、朝廷に忠誠を誓い、朝廷より「百済王 (くだらのこにしき)」姓を賜り、東北の国司などを務めた

韓国人が、百済を南祖と称しているが、ウソである
百済の支配層は、朝鮮半島に残っておらず、土着の馬韓人や辰韓人が残って同化しただけである

百済の亡命支族からは、日本で文部大臣に当たる書司(ふみのつかさ)に就いた者も居る
しかし、不思議なことに、言語問題は起こっていない

また、高句麗は滅亡時に一部が日本へ亡命したとも伝えられているが、倭国自体は高句麗に分が悪く、ほとんど撃退されている

高句麗は最盛時に夫余も圧倒して国土を奪っている
トーテムなどから見て、主力は、夫余系拍族の可能性が高い


高句麗滅亡後、高句麗族は、支配下だった靺鞨(まつかつ)族と共に、渤海(A.D.698~A.D.926)を建国し、唐に対抗した



渤海国の大武芸王は、AD.727年、親書を携えた使いを日本に送る


-------『渤海国・国書』---------

渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。


わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。


----------------------------------------

少なくとも当時の東アジア諸国の認識を示すものである。

日本はこれを受けて、渤海国と同盟し、日本側の窓口は菅原道真であった。




■高句麗に拠る、山陰(出雲)・山陽の支配

高句麗は、3世紀に魏によって2度の侵攻を受け、数千人が斬首され逃げ惑っている。
この時に、小国分立状態の倭(日本)へ高句麗勢が渡り、各地を支配したとする説がある
実際、各地に支配の形跡がある


朝鮮半島に近い、出雲地方には、高句麗特有の四隅突出型墳丘墓が多数存在するのである

島根県や鳥取県西部(かっての出雲)では、四角形の方墳の発見が相次いでいて、ヤマトにまだ古墳がない時代、出雲地方にはすでに四角い墳墓が存在していた事がハッキリしてきたのであ る。
四角い墳墓(方墳)は高句麗の特徴であり、対照的に新羅は円墳である
中でも四隅突出型墳丘墓は高句麗独自なのである

国内の四隅突出型墳丘墓は、以下

広島県三次市周辺 9基
岡山県津山市周辺 2基
島根県の東部 19基
鳥取県 6基
石川県 1基
富山県 1基

計38基


出雲の古墳は、最近の調査によると、方墳は約250基、方墳が2つくっついた形状の前方後方墳は約30基程度も存在する



前方後方墳の数

島根 33
鳥取  3
兵庫 7
京都 8
福井 3
石川 26
富山 2

前方後方墳も、島根(出雲)が最も多いが、次いで石川(能登、加賀)が多い

かって、前方後方墳は、日本独自の前方後円墳の前段階と思われていたが、最近では別系統と考えられ始めている


方墳、特に四隅突出型墳丘墓を高句麗支配の象徴と見れば、日本海側を中心に中国地方、石川を中心とした北陸などは、高句麗の支配下にあった可能性が高い
朝鮮半島南端から船を漂流させると、潮流で能登半島に運ばれる可能性が高いのである

事実、山陰や北陸地方には朝鮮半島と共通する文化が多数見られる




■白山信仰と高句麗、朝鮮半島の繋がり

白山信仰は、霊山白山をご神体とする
白山は、活火山であり、山頂には15もの火口や火口跡が存在する


      白山(標高2,702m) 石川県と岐阜県の県境にそびえる

日本の白山信仰は、7つの元になる信仰があったと民俗学で既に明らかにされていて、山岳仏教も色濃い



その中には、朝鮮半島の白山信仰(白頭山信仰)も含まれ、関わりが濃厚だとされる
白頭山は、中国と北朝鮮国境にある、標高2744mの活火山であり、白山とよく似ている
近年活動が活発化しており、噴火が懸念されていて、日本にも粉塵が降下して被害が出ると言われている


白頭山は、牛頭天王信仰と結びついていて、牛の力を得るため、殺牛祭祀が行われる
東アジアには、ヒンズー教・道教など宗教の違いがあるが、共通して殺牛祭祀が行われている
日本でも古文献に牛の肉を使って場を清めたという記述が見られる


牛頭天王=スサノオミコトという思想は、奈良時代から始まっている


出雲がスサノオミコトの地であり、能登・加賀や岐阜などが白山にまつわる牛頭天王信仰と関わりが深いことは相似である


一般に白山神社、白鬚神社、白神社など「白」がつく神社は、新羅や朝鮮半島に関わる神社であるとされる
新羅とシロで音を同じとするからである



全国3000社の白山神社の総本宮は、白山比咩(ひめ)神社であり、菊理媛神(ククリヒメのカミ)を祭神とする


実は、菊理媛(ククリヒメ)とは高句麗姫のことである
この事実は衝撃的



■謎の高松塚古墳・キトラ古墳

この2つの古墳は、稀に見る極彩色壁画の古墳として大変注目を集めた

道経思想に基づく、四神が東西南北の壁面に描かれている
東の青竜(せいりゅう)・南の朱雀(すざく)・西の白虎(びゃっこ)・北の玄武(げんぶ)である
そして天井には、北極星

これらの配置は、被葬者が皇帝であることを示している


これらの壁画や構造様式は、明らかに大陸系で日本のそれではない
発掘当初から、高句麗墳墓と酷似していることが指摘されていて、参照しながら発掘は勧められた


高松塚古墳の女子群像の服装は、高句麗古墳の愁撫塚や舞踊塚の壁画の婦人像の服装と酷似し、高句麗の服装ではないかと言われている

高句麗古墳群は、北朝鮮の首都平壌の郊外に存在する世界遺産であり、日本でも副葬品などが展示されている

高句麗古墳群で見つかった相撲の壁画は日本の相撲に酷似している
曲げを結い、塩らしきものを撒いている。
まわしに似た衣装。
現在の韓国相撲シムルとは随分様子が違うが、日本の相撲には似ている。


被葬者は、皇族の皇子説が唱えられているが、高句麗の王族説を唱える学識者も居る