ワグナー事件(ワグナーじけん)は、1913年9月4日にドイツ、
バーデン=ヴュルテンベルク州のミュールハウゼン村
(現在はミューラッカー市の一部)で発生した大量殺人事件。
日本では、1938年5月21日、岡山県苫田郡で津山事件が
発生した際、この事件と多くの共通点が指摘された。
犯人エルンスト・アウグスト・ワグナー
エルンスト・アウグスト・ワグナー(Ernst August Wagner)は、
1874年9月22日、バーデン=ヴュルテンベルク州の
エグロスハイム(Eglosheim)という村で、貧農の家の10人中
9番目の子として生まれた。

父は飲酒好きでうぬぼれの強い性格、そして母はいつも愚痴をこぼす
陰険な性格で、性的にだらしがなかったといわれる。
ワグナーが2歳の時に父が他界、母は別の農夫と再婚するがワグナーが
7歳の時に離婚、一家は極貧状態に陥った。
ワグナーは、学校の成績は優秀で活発である一方、名誉欲が強く
異性への関心も早くから示し、18歳頃からは手淫癖により、
コンプレックスを抱くようになったともいわれる。
20歳で教員試験に合格したワグナーは、各地の国民学校で
教鞭をとるようになった。この頃のワグナーは、周囲からは
「礼儀正しく、おだやかで、親しみがもてる」人物と見られていたが、
内面では上昇志向が強く、他人を軽蔑し、知識人を気取って
「標準ドイツ語」で話すのを好むなど、過剰な自意識を抱いて
いたようである。
また、文学への関心も強く、この頃から多くの詩や戯曲を執筆し
始めている。恵まれない境遇にも拘らず、成績優秀だったワグナーは
教職の資格を取得する。そして、1894年からいくつかの学校で
補助教員として教鞭を執るわけだが、1900年4月には短気な
性格ゆえに半年間の停職処分を下されてしまう。
自尊心が高い彼は多いに傷ついたことだろう。その間、スイスに
渡って自作の詩を新聞社に売り歩いていたが、商売にはならなかった
ようだ。
1901年、ワグナーは事件発生現場となったミュールハウゼン村に
教員として赴任し、そこで居酒屋の娘と関係を持ち、妊娠させてしまう。
ワグナーは彼女に愛情を抱いていなかったが、娘に結婚を迫られたうえ
周囲からの勧めもあり最終的には結婚に同意する。
また、この件はワグナーの上司の知るところとなり、翌年、ワグナーは
別の村に転任させられた。後に彼が語ったところによれば、赴任して
間もなく、酔った勢いで「動物を犯した」。何の動物かは不明だが、
とにかくこのことが後の惨劇の引き金となる。酔いが醒めた彼は猛烈な
自己嫌悪に陥り、
「誰か村の者が見ていたのではないか?
そのことを皆で噂しているのではないか?
馬鹿にしているのではないか?
嘲笑っているのではないか?」
などと疑心暗鬼を生じさせて行ったのである。とにかく、動物を
犯してしまうぐらいだから性欲が旺盛な男だったようだ。
たしかに、絶倫そうな顔立ちをしている。翌年には居酒屋の娘、
アンナ・シュレヒトを孕ませてしまう。おそらくそのことが原因で
ワグナーはレイデルシュテッテンに転勤を命じられる。
更に辺鄙な場所である。自尊心が高い彼は憤慨するが、
疑心暗鬼からは逃れることが出来た。しかし、それはあくまでも
一時的にだ。獣姦行為の事実はその後も彼を悩ませ、確実に
精神を蝕んで行ったのである。1903年12月29日、ワグナーは
アンナと渋々ながらも籍を入れる。長女のクララは既に10ケ月に
なっていた。その後もエルサ、ロベルト、リヒャルドと、4人の子を
もうけるが、彼は妻のことを全く愛していなかった。教養がないことを
小馬鹿にし、使用人程度にしか思っていなかったことだろう。
1904年の夏、ワグナーは再びスイスを訪れ、2度の自殺を
試みている。1度は川に身を投げ、1度は橋から飛び降りた。
しかし、遂げることは出来なかった。ワグナー曰く「意思が弱かったんだ」。
この時に遂げていれば、あんなに死なずに済んだものを。
1906年頃からワグナーは再び過去の失態に悩まされるようになる。
「ミュールハウゼンの連中は俺が獣姦したことをこの村で
吹聴しているのではないか?馬鹿にしているのではないか?
嘲笑っているのではないか? いや、きっとそうに決まっている。
間違いなく云い触らしている」
彼は曖昧ながらもミュールハウゼンへの復讐の準備を始めた。
拳銃を手に入れ、休日には郊外で射撃の練習に励んだ。
1909年から1911年にかけて、ワグナーはいくつかの学校を
転々とした後、1912年3月にデガーロッホに赴任した。
この頃には彼の復讐のプランは明確なものになっていた。
犯行

1913年9月4日午前5時、ワグナーは睡眠中の妻を鈍器で殴って
気絶させ、ナイフで喉を切り裂き、心臓を突き刺した。これと同じことを
4人の子供に繰り返す。遺体に毛布を掛けて、返り血を洗うと、
2挺のモーゼルC96と1挺のリボルバー、500発の銃弾、そして
顔を覆うための黒いベールを鞄に詰め込んで、自転車で
シュトゥットガルトに向かった。午前8時10分の列車に乗り、
ルートヴィヒスブルクで下車。
そこでバックパックを購入した後、午前11時に兄の家に寄る。
しかし、兄は不在だったので、義姉にこのように告げている。
「ミュールハウゼンにいる子供たちを迎えに行くところなんだ」
その後、自転車でシュトゥットガルト市に向かったワグナーは、
午前8:10分発の列車で、そこから12km程北にある都市ルートヴィ
ヒスブルク市に向かった。
自転車は手荷物として預けたが、銃3丁、実弾500発以上、
拳銃2丁、革のベルト、縁なし帽などを旅嚢内に、さらに
リボルバー1丁を上着の内側に携行していた。
ルートヴィヒスブルクで軽い食事を済ませたワグナーは、
午前11:00頃、そこに住む親戚の家を訪れ「これからミュール
ハウゼン村に行っている子供たちを迎えに行く」と告げている。
その後、近くの駅から、午後1:00発の列車でビーティッヒハイム市
(Bietigheim-Bissingen)に到着したワグナーは、夕方7:00頃には
自転車でビーティッヒハイムを出発、夜11:00頃ミュールハウゼン村に
到着した。
村に到着したワグナーは、村のあちこちで放火、炎から逃げ出して
来た人々を無差別に銃撃し、9名を殺害、12名に重傷を負わせた。
ワグナーは男性のみを殺害しようと考えていたが、死者に女性が
含まれていることを後に知って非常に後悔したという。
また、村の家畜数匹も負傷した。被害者の大半は心臓を
撃ち抜かれていた。ワグナーは、警官2人と怒り狂った村の住人達に
打ち倒され、重傷を負って捕らえられた。この時の負傷により後に
ワグナーは左腕の切断手術を受けている。
ワグナーはハイルブロン市の未決監に拘留された。そこでの尋問で
ワグナーがさらに自分の姉とその一家も殺害しようとしていたこと、
そして最後にルートヴィヒスブルク城(Residenzschloss Ludwigsburg)で
銃により自殺しようとしていたことが明らかになった。
犯行の動機
ハイルブロンで行われた審理や、精神科医による精神鑑定により、
ワグナーの一連の凶行の動機が明らかになった。ワグナーの供述に
よれば、ミュールハウゼン村に教師として赴任した時に、酒に酔って
獣姦行為を行ったという。
ワグナーは自分のその行為が村の住人に知られるようになり、
自分が嘲笑され、迫害されていると思い込むようになった。
そこでワグナーは家族を道連れにして自殺する決意を固め、
さらに村の住民達へ復讐しようと企てたのであった。
子供達を最初に殺害したのは、自分の死後、彼らが生きてゆくのを
不憫に思ったためだという。しかし、事件後もワグナーの獣姦行為を
証言する者は一人も現れなかった。ワグナーは獣姦行為が人に
知られるのを恐れていたが、それを最初に明らかにしたのは
結局自分自身であった。
また、ワグナーの獣姦行為については、ワグナーが死ぬまで
詳細を語ることを拒んだため、実際どのようにそれが行われたのか、
本当にワグナーがそのような行為を行ったのか、もはや確認することは
不可能である。
責任能力の欠如により免責
判事は偏執病により責任能力がないことを認め、ワグナーは免訴された。
ワグナーは1914年2月4日、ヴィンネンデン(Winnenden、シュトゥットガルトの
約20km北の都市)の療養所の一人部屋に収監された。
バーデン=ヴュルテンベルク州の司法史上、被告人が責任能力の
欠如により免訴されたのはこれが初めてであった。
ワグナーは死刑を望んでいたため、自分の精神鑑定を行った
精神科医を憎悪したという。

事件後
ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、1919年に発表した小説
『クラインとワグナー』(”Klein und Wagner”)でこの事件について
言及している。
また、オーストリアの作家フランツ・ヴェルフェルは、精神病者が
主人公の戯曲『沈黙の人』(”Der Schweiger”)を1923年に発表したが
ワグナーはこれを自分の戯曲の盗作だと激しく非難した。
ワグナーは療養所内でも多くの戯曲を自ら執筆した。ワグナーは
それらをマンハイム市の国立劇場の館長に送り、劇場での上演作品として
提供したが上演は断られた。ワグナーは1938年、収監先の療養所で
結核により死亡した。
