📩◾️『知の構築とその呪縛』(大森荘蔵/ちくま学芸文庫)〈う〉


  *ウ〜ム、読了はしたのだが、大変難しい!分かりづらいところがある。こちらに読解力がないのだが。

  大森荘蔵の文章は、川の水面の波に似ている🌊。波の一つひとつが全体を作り、その動きと連動し、精妙なバランスをとって移動してゆく。向かっている方角は明確に定まっている。その途中の微妙な動きが、つまり波の一つひとつの動きが精確に描かれる。その結果、美しい波の複合による大きな交響曲が聞こえてくる。と言った感じなのだが、波の一つひとつの描写が微細で精妙で入り組んでいるのでここで私は迷路に入ってしまう。

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 ▪️現代の世界観の誤り


  🔹その通り、実はこの現代の世界観はおかしいのである。一体いつどこでおかしくなったのか?それはまさに、近代科学の出発点において、近代科学の旗手ともいうべきガリレイとデカルトによってなされた。その誤りとは、こうである。客観的事物にはただ幾何学的・運動学的性質のみがあり、色、匂い、音、手触り、といった感覚的性質は人間の主観的印象に属する、というものだ。このテーゼが、自然の死物化とそれに伴う心の内心化との開始点となった。なぜなら、このテーゼの意味するところは、日常われわれが見たり聞いたりしている色あり匂いある風景風物は、各人それぞれの「心の中」(意識の中)の印象に過ぎず、それらは客観的事物から感覚器官を通して脳に届く作用によって生じたものだ、ということだからである(この考えは「知覚因果説」と呼ばれている)。つまり、われわれの毎日の生活は各人それぞれの意識の中で行われているだけである。そしてそれは外部の客観的事物からの作用を受けた各人の脳によって各人各様に生ぜしめられたものだ、というのである。


  しかし常識が本能的に感じる通り、このテーゼは誤りである。このことを示すのが本書の目的なのである。


  近代科学以前の略画的世界観がもっていた、活きた自然との一体性という感性は密画化によって失われる必要などなかったのである。密画化による世界観の近代科学化は些かもこの「活きた自然との一体性」の廃棄を要求するものではないのである。逆に、ガリレイ、デカルトのテーゼを廃棄しても近代科学は元のままである。ただ、近代科学の描く世界像を彼らとは違った眼で見なければならない。おおまかにいえば、日常生活の風景と科学者が原子分子や電磁場で描く世界は一心同体、一にして同じものと見るのである。


  そして、この本の最後の2章のタイトルへと繋がる。

  14 :物と感覚の一心同体性

  15 :自然の再活性

(以上要約です)


  ▪️さて、ここにデカルトの「方法的懐疑」なるものがある。

  

  【ある悪い霊が、しかもこの上なく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。天も、空気も、地も、色も、音も、形も、その他一切の外的事物は、悪い霊が私の信じやすい心を罠にかけるために用いている、夢の計略にほかならないと、考えよう。また、私自身、手ももたず、眼ももたず、肉ももたず、血ももたず、およそいかなる感覚器官をももたず、ただ誤って、これらすべてのものを持っていると思いこんでいるだけだ、と考えよう。】(『省察』第一)


  デカルトはこの方法的懐疑によっても、動かない真理として、「我れ思う、故に我れ在り(コギト エルゴ スム)」、すなわち自分の意識の不可疑性を得た。しかし、この懐疑を克服して「外界在り」に至るには神の助力が必要だったのである。つまり、神は欺かない、という信念によって、外界は事実存在し、そしてほぼ知覚風景通りである、と。


(以上要約です)


  ***やはり、最後には神の登場となる。

  すべてを、自分の身体をも、(しかし私たちは自分の身体を充分に信頼できるものか?)疑おうとしたデカルトは、しかし、神を疑うことはしなかった(できなかった)。


この項続く🌊

▪️Thanks for reading.🦜