📩◾️『流れとよどみ-----哲学断章-----』(大森荘蔵/産業図書)❺


  ▪️「見る👀------考える」


  《幾何学で習った幅のない線とか広がりのない点とかいったもの、そういうものを目で見ることができるだろうか。ここで、できない、という答えは早すぎよう。新聞紙の「端」だとか三色旗の色の境目だとかは幅がないはずだがとにかく「見える」のだから、そして新聞紙の四隅も広がりのない点ではないだろうか。しかし白紙の上にペンキやインクで幅のない線を引いたり広がりのない点を打ったりすることは明らかにできない。「端」だとか「隅」だとかはある物質の広がりの「限界」なのであり、だからその限界自身は物質ではない、したがって物質で作図することはできないからである。だから白紙の上に幾何学的な線や点を「見る」ことはできない。

  それなのにわれわれが紙の上で幾何学をやれるのはそのような点や線を「考えて」いるからである(そのことをプラトンは「心の目で見る」と表現した)。紙の上に目で見えるように描かれた三角形の辺はもちろん幅のある線である。だからその三角形には幾何学の定理は厳密には成りたたない。しかしわれわれはそのインクの三角形をいわば挿し絵として幾何学の三角形を「考え」、そうして考えられた三角形について定理を証明するのである。


  これはほんの一例であるが、われわれに物事が現れる仕方には大別して二種類ある。見える、聞こえる、触れる、等といった知覚的な現れ方と、考えるという現れ方とである。これはあくまで大別しての二種類であるが、この大別のコントラストは非常に大切ではないかと私は思う。》


  買い物に来ている主婦は、今晩のおかずを「考えて」歩いている。また、バス🚌の中で思い出し笑いをしている勤め人も何かを「考えて」いる。


  《しかし、夕飯のおかずといった未来の事物、昨晩のつつましい楽しみ事といった過去、こうした未来や過去の事物は知覚的に現れることはできない。現在ただ今その夕飯を味わうことはできないし、現在ただ今昨晩の楽しみを楽しむことはできない。知覚的に現れるのは、ただ現在ただ今のことがらだけなのである。だから未来や過去はただ「考える」という仕方で現れることができるだけである。そしてどんな人でもいくばくかの未来や過去のことを考えていない時はないだろうから、人は常時「考える人」なのである。だから実は、「考慮中」とか「考えておく」というのは政治家や役人の専売言葉ではないのである。人は誰しも常時考慮中なのである。》


  晩のおかずを考えるとき、肉や🥩野菜🥦の生き生きとした、時にはよだれの出る映像が浮かんでくる。しかし、それらの「映像」は見たり聞こえたり、つまり知覚的に現れる映像ではない。それらは考えられた映像なのである。


  《それらは見つめることのできない、見つめることのできる細部を持つことのできない、映像なのである。今晩のおかずを考えている主婦はどんなに努力しても予定のコロッケの、例えば右の端を見つめることはできない、そこの衣の凹凸ぶりや焦げぶりを。それは何もそのコロッケがボンヤリしか見えていないというがためではない。ボケた写真でも霧ににじんだ物影でもその細部は完全に明瞭なのである。それらが「ボケた」と言われるのは単に、明暗や色調の移行が他に比べてゆるやかであるからにすぎない。知覚的な現れ方にあっては真の「不明瞭さ」というものはありえないのである。それに対して、「考えられた」コロッケは見つめるべき細部を持つことができないのである。このことが、「見る」ことひいては「知覚する」ことと、「考える」こととの基本的な相違なのである。》


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  《われわれが日常見る事物はすべて三次元の立体である。そしてわれわれに「見える」のはその時々の視点(距離とアングル)からの表面だけである。しかしわれわれはその表面だけではなく、その背面や無数の側面、それにその内部を程度の差はあれ了解している。その了解がなければ第一に「表面」ということもないはずだからである。向こうからくる人を見るとき、その人には背中があり、脇腹があり、そしてつまった中身がある、そうしたものとして見ているのである。張り子の虎だって背中もあれば空っぽの中身もある。だがそれらの背中や中身は今「見えて」はいない。われわれはそれらを「考えて」いるのである。だから何にしろ「考え」に裏打ちされないでは「見る」こともできないのである。》


  **これを、大森は別著『物と心』ではこう述べる。


  《机の現在ただ今の背面の知覚的思いはこの現実世界の思いではなく架空の虚なる思いである。だがこの虚なる思いがこの実の世界で実の働きをする。すなわち、この虚なる思いが込められていてこそ机の知覚正面はまさにこの机の実なる知覚正面であるのである(つまり、机は机として見える)。この虚なる思いの実の働きを「虚想」と呼ぶのである。》


  ***そして、弟子の野矢茂樹は、これを批判して発展させ、さらに大きな、自らの「眺望論」(私の経験の在り方ではなく、有視点的に把握された世界の在り方)へと繋げる。それは、こんなふうにだ。


  《私は大森のこの洞察を受け継ぎたいと考えている。(----------)

大森がそれを「架空の虚なる思い」とするのは、いま現在の大仏の背中がいま現在の私の経験では捉えられないからである。逆に言えば、大森にとっていま現在の私の経験こそが「実の世界」のすべてとされる。つまり、ここには「独我論的な経験主義者」と呼びうる大森の考え方が反映している。だが、私は独我論的な経験主義に立ちたいとは考えていない。それゆえ、大森の虚想論を大森のいる場所から眺望論のもとへと移植したいのである。》


  *****そして、この野矢の目論見は『心という難問-------空間・身体・意味において見事に成功していると私には思われる。

 


この項続く🦅

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🔹 この項続く🐈‍⬛

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