📩◾️『流れとよどみ-----哲学断章-----』(大森荘蔵/産業図書)❹


  ▪️「論理的」ということ


  《「論理的」ということはそれほど理路整然たるものだろうか、という疑念がでてくるのである。私には、論理的展開というものは理路整然としているというよりは冗長であるという点にその特性があるように思えるからである。

  現代の記号論理学が明確にしたように、われわれが「論理」と呼ぶものは、三歳の童子にでもできる若干の語の使い方を基礎にしている。

  「------でない」という否定詞、「------かまたは------」という撰言詞、「------でありまた------」という連言詞、「------はみんな」という総括の言葉、それに「何々は------である」の「である」、この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書き上げたのが「論理学」なのである。(----------)


  「論理的である」、つまり「論理的に正しい」ということもこれらの規則の正しい組み合わせであるということにほかならない。だが、それはとにかくも言葉の使用規則の組み合わせなのだから、でてくるものもまた規則である。ということは、それらは事実についての情報を全然もっていないということである。六法全書をいくらひっくり返してみても誰がいつどこで誰の金を盗んだといった事実情報が全然出てこないのと同様である。例えば排中律と呼ばれる論理学の定理の具体例を作ってみる。

  「明日は雨であるかまたは雨でない」。

  これが天気予報としては全く情報ゼロであることは誰の目にも明らかであろう。だがこの式の言い方でも中にもっともらしい合いの手を詰め込むと、***例えば選挙の当落の予想記事として通用するものである。だが事実的な情報がゼロだということを裏返せば、事実がどうあろうと、世界がどう動こうが正しい、ということである。それが論理学の普遍性とか必然性といわれるものである。何が何であろうと、明日は雨か☂️雨ではない、それはそうであろう。》


  ***大森先生は、選挙の当落予想など当てにならない(全く何も言ってはいない)と思われていたのかナ?解説者(記事執筆者)のもっともらしい合いの手に飽き飽きされていたのかな?と思うと、面白い‼︎


  《「論理的に正しい」ということの基本的性格は変わりがない。(--------)

  すでに一度述べたことをあらためて再度繰り返す、だから間違いっこない、だから論理的に正しいのである。前提から帰結を正しく引き出すとは、五つの基本語の規則に従って前提ですでに述べたことを帰結で再度述べることなのである(繰り返しには全面的繰り返しと部分的繰り返しとがある)。前提を全面的あるいは部分的に言い直す、それが正しい帰結を言うことなのである。(----------)

  だから「論理的に正しい」話をするとは、始めに言ったことを言い直し言い換えることであり、したがって始めに言ったこと以上の情報を与えないことなのである。もしも始めに言ったこと以上の情報を与えたならばそれは少なくとも論理的には正しくないはずである。だから同じことを繰り返す、つまり冗長であることが論理的であることなのである。》


    *****われわれの多くのイメージでは、論理的(に正しいこと)である、イコール簡明直截である、というものではないだろうか?ところが、著者は論理的であることは冗長であること、と述べる。論理学的に言えば、確かにその通りかもしれません。not (no, nothing)と、or と、and と、all と、be とを組み合わせて論理を組み立て、それ以上に何も付け加えることを峻拒すれば(しなければならない、論理的であろうとすれば)、当然冗長になる、というわけでしょう。

なるほど、と思います。

  しかし、始めに言ったことが正当なものであるかどうかは、誰が判断するのだろう?この疑問は見当外れかな?これは、論理学と社会学(文化文明論)とを混同しているから起きるものかもしれませんが------。(よくわからん。)



 🔹 この項続く🐈‍⬛

Thanks for reading.🦜