📩◾️『流れとよどみ-----哲学断章-----』(大森荘蔵/産業図書)❸


  ▪️「記憶について」


  《ここにAさんの写真がある。それが「Aさんの写真」であることを私が承知しているためには、私は写真ではないAさん自身を知っておらねばならない。それと同時に、ある記憶痕跡が「何々の痕跡」だと承知しているのならば、それはすでにその「何々」を承知していることである。そしてその「何々」自体をすでに承知しているのであれば、それを承知するために今さらその「痕跡」を必要としないのである。だから私が東京駅を思い出しているとき、私は東京駅の痕跡を通じて東京駅を思い出しているのではない。私は東京駅それ自身をじかに思い出しているのである。

  しかし、では死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りであると思う。生前の友人のその在りし日のままをじかに思い出しているのである。その友人は今は生きては存在しない。しかし生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の眼や肌でじかに「知覚する」ことはできないが、私は彼をじかに「思い出す」のである。そのとき、彼の影のような「写し」とか「痕跡」とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのである。「彼の思い出」がかろうじて今残されているのではなく、「思い出」の中に今彼自身が居るのである。**ある意味では、過去は過ぎ去りはしないのである。だから「痕跡」などを残す必要はさらさらないのである。》


  **なるほど、生前の彼がそのままじかに現れて、今、彼自身が居る、のであるから、過去は確かに過ぎ去りはしない、と言える。いや、まさにその通り、という感じがする。

  思い出を精確に振り返れば、いかにもこの通りだ、と気付く。


この項続く🦅

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