📩◾️『或阿呆の一生・侏儒の言葉』(芥川龍之介/角川文庫)❺

 

  ▪️「遺書 或旧友へ送る手記


  *これは遺書の一つだが、「或阿呆の一生」の原稿を託された久米正雄や他の友人たちの意見で、7月24日(自死当日)の夜に新聞記者に公表された。島崎藤村から〈死に直面した人とは思われないほどの落ち着き〉と評された。明晰な論理と文体に乱れがない。この作家の自裁が決して狂気や衝動の発作ではなく、冷静な決断・選択であったことを示している。

  有名な〈ぼんやりした不安〉という言葉はここに見える。

     [作品解説:三好行雄 による]


《自殺者はたいていレニエ〔1864〜1935。フランスの詩人、小説家〕の描いたように何のために自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少なくとも僕の場合はただぼんやりした不安である。何か僕の将来に対するただぼんやりした不安である。君はあるいは僕の言葉を信用することはできないであろう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にいない限り、僕の言葉は風の中の歌のように消えることを教えている。したがって僕は君を咎めない。---------》


  《僕はこの2年ばかりの間は死ぬことばかり考えつづけた。僕のしみじみした心もちになってマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向かう道程を描いているのに違いない。が、僕はもっと具体的に同じことを描きたいと思っている。家族に対する同情などはこういう欲望の前にはなんでもない。》



▪️「僕」は、まず第一に、 苦しまずに死ねる方法を考えた。

縊死はこの目的にもっとも合致する手段だが美的嫌悪を感じる。溺死は水泳のできる「僕」には苦痛が多い。轢死も美的嫌悪を感じる。ピストルやナイフによる死は、手の震える恐れがあるので失敗の可能性がある。高所からの飛び下りもやはり見苦しい。これらを考えて薬品を用いることに決めた。

  

  《最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないように巧みに自殺することである。これは数箇月準備したのち、とにかくある自信に到達した。〔------〕僕はひややかにこの準備を終わり、今はただ死と遊んでいる。この先の僕の心もちはたいてい**⬇️マインレンデルの言葉に近いであろう。》


**⬆️マインレンデルの言葉:  

    ≪人は始め遠くから死に怖れに満ちた眼をむけ、慄然としてこれを避ける。ついで慄えながら遠い円を画いてその廻りを徘徊する。然し一日一日とその画く円は狭くなり、最後に疲れた腕を死のうなじに投げかけ、その眼に見入るのである。そこにあるものは平和、ただ甘き平和があるのみである。≫『救済の哲学』藤田健治訳から]


 ▪️最後の一節は次の文章で終わる。


  《我々人間は人間獣であるために動物的に死を怖れている。いわゆる生活力というものは実は動物力の異名に過ぎない。僕もまた人間獣の一匹である。しかし食色にも倦いたところを見ると、しだいに動物力を失っているであろう。僕の今住んでいるのは氷のように澄み渡った、病的な神経の世界である。僕はゆうべある売笑婦といっしょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きるために生きている」我々人間の哀れさを感じた。もしみずから甘んじて永久の眠りにはいることができれば、我々自身のために幸福でないまでも平和であるには違いない。しかし僕のいつ敢然と自殺できるかは疑問である。ただ自然はこういう僕にはいつもよりもいっそう美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、かつまた理解した、それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずにおいてくれたまえ。僕はあるいは病死のように自殺しないとも限らないのである。》(昭和2年7月)


  *****  "病的な神経の世界" に住んでいるという。『或阿呆の一生』の「22  ある画家」にこんな箇所がある。

  ≪ある薄ら寒い秋の日の暮れ、彼は一本の唐黍(からきび)にたちまちこの画家(=小穴隆一のこと。彼宛ての遺書を芥川は残している)を思い出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろったまま、盛り土の上には神経のように細ぼそと根を露していた。それはまたもちろん傷つきやすい彼の自画像にも違いなかった。しかしこういう発見は彼を憂鬱にするだけだった。

  「もう遅い。しかしいざとなった時には------」≫


  ***** "もう遅い" とは、何に対して遅いのか?もう後戻りはできない、決心したのだ、今さら引き返すことはないのだ、"いざとなった時には" 、明澄な心で実行するのだ、と言っているのか-------?はたして------?

  芥川は「神経」という語に非常に敏感であると思う。あるいは、どんな事物に対しても「神経」を見てしまう、と言っていいのかもしれない。

  さらにまた、死者の生者に対する要求は叶えられることが少ない。現世のことに死者は沈黙でしか応えることができないのだから、仕方がない。この世のことは生者に任せるしかない。死者をほんとうに慈しむ人はごくごく僅かな人しかいないということか。


  🔹『或阿呆の一生』全51章のうち、「死」と題されたものが二つある。「44  死」は、試しに縊死しようとやってみた話。もう一つ「48  死」は以下の通り。これは、『或旧友へ送る手記』のなかの、

  ≪しかし僕は手段を〔薬品に〕定めたのちも半ばは生に執着していた。したがって死に飛び入るためのスプリング・ボオドを必要とした。〔----------〕このスプリング・ボオドの役に立つものはなんと言っても女人である。〔----------〕僕の知っている女人は僕といっしょに死のうとした。が、それは僕らのためにはできない相談になってしまった。

  という部分に対応していると思われる。それは、-------

《彼は彼女とは死ななかった。ただいまだに彼女の体に指一つ触っていないことは彼には何か満足だった。彼女は何ごともなかったように時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持っていた青酸加里を一罎渡し、「これさえあればお互いに力強いでしょう」とも言ったりした。

  それは実際彼の心をじょうぶにしたのに違いなかった。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、たびたび死の彼に与える平和を考えずにはいられなかった。》


 ▪️新年早々、暗い話題で申し訳ありません。が、この歳になると、新しい年も、子どもの頃のなんとなく感じた高揚感など些かもなく、同じような日常が続いてゆくだけです。それに加えて、時の経つのがなんと速いことか‼︎ 加速度的に速くなってゆくようです。それにつれて、亡くなった家族の一人ひとりのあの時のあの言葉はこんな意味だったのか、と思い当たることが多くなりました。やはり、その年齢を越えるまでは、その年齢の人の思いは、実感としては掴めないものだ、と思わざるを得ません。老人で生まれ、赤児で生を閉じるのが最高の幸せである、と誰かが言っていたと記憶していますが、さもありなん、です。

  今年こそ、ウクライナの戦火が収まることを願うばかりです‼︎


▪️ (この項続く)🐇

【Thanks for reading. 】🦜