📩◾️『「語る人」吉本隆明の一念』(松崎之貞/光文社)(え)


  ▪️著者は、2002年に退職(55歳)し、その挨拶に吉本宅を訪れた。「それで、これからどうするんですか?」と吉本に訊かれたので、しばらく充電したあと、好きな分野の編集をつづけるつもりだと答えた。すると、次のようにいってくれたという。


  ≪ぼくがいうまでもなく、出版の分野は大手も中小も、どの社も青息吐息の情況にありますからね、フリーでやっていくのはそう楽じゃないと思います。うちへくる編集の人たちもみなさん、口をそろえて「キビしい、キビしい」といっています。斎藤緑雨じゃないけど、「筆は一本、箸は二本」っていいますからね、いまのような出版情況のなかで食っていくのはたいへんだと思います。

  だからもしぼくでお役に立てる場面があれば、そのときはどうぞ遠慮なく、そういってきてください。できることであれば、ご協力しますから。≫


  この言葉がきっかけとなり、以後、吉本の座談に接するようになって、著者は幾冊かの本の刊行に関わることになる。


  《毎回、テープ取りを終えると、足腰が悪いのに這うようにして玄関先まで見送りにきてくれ、「では、ここでご免ください」と挨拶する姿にはいつも頭が下がる思いがしたものだった。

  こうした配慮が、だれにたいしてもおこなわれた客観的証言のひとつとして、『埴谷雄高・吉本隆明の世界』というムックを責任編集した齋藤愼爾の「編集余滴」を引いておく。

  ≪(本企画に関する相談は)まず埴谷氏にもっていった。埴谷氏は「吉本君が了承するならいい」といわれた。(中略)吉本氏は何もいわずに承諾して下さった。(それにはここ数年、生活的に窮している私を支援するという思い遣りがあったと思われる。〈放棄〉〈献身〉というか、氏には窮状にある人間が救抜されるなら、自分のことなど顧慮することはないといったところがある。-------≫ 

  この種の証言にはこと欠かない。吉本隆明とは、人の気持ちを見抜き、そこに思いをやる精神の人だった。》


〜-------〜-------〜-------〜-------〜-------〜-------〜


  ▪️2005年の秋ごろのこと。

  《吉本宅近くの吉祥寺の門前で光文社の編集者と待ち合わせをしていたわたしは、ひと足先に到着した。すると、寺の塀に沿って歩く吉本の姿が目に留まった。あとにも先にも散歩をする吉本を見かけたのはそれ一回きりであった。

  体をほぼ90度、「くの字」形に曲げた吉本は銀髪の頭を前に突き出し、一歩一歩杖をつきながら、キッとした目で地面を見すえて歩んで行く。チラッとしか見えなかったが、その目つき、顔つきは「必死の形相」と形容しても大げさではない。歩幅はとても狭い。地面に刺す杖の手ごたえをたしかめながら、グッグッと進んで行く。前に進む速度はきわめて緩慢としている。それでも、ひと足ひと足、地を踏みしめるようにして歩を進めて行った-------。

  もちろん、声をかけるつもりなどなかったが、たとえ声をかけようとしても、そんなことは許されないような気魄が吉本のからだ全体を包んでいるかのようであった。転ばぬように、という配慮からだろう、寺の塀に沿って進む。万が一よろけそうになったら塀にもたれかかることができる間隔だ。その間合いを保って前に歩んで行く姿は「散歩」と呼ぶにはあまりにも壮絶な光景であった。

  当時の吉本は80歳になるかならぬかという年齢だったから、足が弱って一度寝込んでしまったら立ち上がれなくなってしまうという恐れがあったはずである。だから雨の日でもないかぎり、この日課を守りつづけていたのだ。》

 

  ***散歩については、吉本はこんなふうに語っている。

  ≪足腰がとくに弱ったのは椎間板ヘルニアをやってからです。それが七、八割がた治ったところで転んじゃったんです。お尻から転んじゃって-------。転んだのは寒いころでしたね。

  それからとたんに足腰が悪くなってしまって、あれはいつだったかな。雨つづきでしばらく散歩を休んだときだから、六月ごろかな。近所の谷中銀座まで自転車に乗って行ったんです。そこまではいいんだけど、帰る段になったら自転車に乗って帰れない。足腰に力が入らなくなっちゃって、こう、どうしても自転車に乗れないわけです。

  だから、自転車は子供に取りにきてもらって-------。

  そんなわけで、雨でないかぎりは毎日うちのまわりを散歩しています。「散歩」といえば聞えはいいけどじつはそんなゆとりはないわけです。もうリハビリのつもりで百メートルとか二百メートル、杖をつきながら歩く。ちょっとキツく感じると、電信柱に寄りかかってひと息ついてからまた歩く。散歩というより根気勝負ですね 。≫


  *そうだったのか。谷中銀座は自宅から自転車で来られる距離であったのだ。私は、「夕焼けだんだん」の坂下にあったジャズ喫茶・シャルマン[charmant ]によく通っていた。壁には長谷川利行の小さな絵画🖼が飾ってあった。ドイツへと旅立つ友人を送る最後の夜を、ジャズを聴いてそこで過ごした。その隣にあったのがトンカツ屋で、その店で時々、吉本氏のお姿を拝見したことは、以前にここに記した。もちろんその頃はまだお元気な様子であったが。


  ここにあるような談話に、私は、吉本氏の自分の生をとことんまで生き切るのだという強烈な意志を感じるのです。


  (この項続く)🖼

🦅▪️【Thanks for reading.】🦜