📩◾️『ブッダが考えたこと-----仏教のはじまりを読む』(宮元啓一/角川ソフィア文庫)


  ▪️五蘊とは


  ゴータマ・ブッダは、初転法輪において、五比丘を相手に、まず苦楽中道を、そして四聖諦を説いた。さらに、無常観を補完するものとして五蘊非我の教えを説いた。これによって五比丘はすべてを知り、最終的な平安(涅槃、寂静)に至った。

  *⬇️五蘊というのは、われわれがふだん「自己」だとみなしがちなみずからの人格的個体を、五つの集まりに分析していったものである。


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*⬆️五蘊:  

  ・『旺文社漢字典』(第三版)によると、

  〔人間を成り立たせている、色(しき)=肉体、受(じゅ)=感覚、想(そう)=記憶、行(ぎょう)=行為、識(しき)=判断の五つ要素〕

 とある。

  ・三省堂『新明解国語辞典』(第四版)では、

 〔人間を成り立たせていると考えた五種類のもの。色=肉身、受=感覚、想=想像、行=心の作用、識=意識。〕 

とある。

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  その五つの集まりとは、色かたちの集まり(色蘊)、感受作用の集まり(受蘊)、表象識別作用の集まり(想蘊)、記憶力などの作用の集まり(行蘊)、判断作用の集まり(識蘊)である。

  

一、色かたちの集まり。色かたちというのは、目に見えるものである身体のことである。

二、感受作用の集まり。感受作用というのは、感官(=感覚器官)によって外界の情報が取り込まれることをいう。

三、表象識別作用の集まり。表象識別作用というのは、例えば視覚で言えば、視覚野にベタ一面に入ってきた視覚情報を、ベタの状態から区画整理された状態にすること(輪郭線を描くこと)である。

四、記憶力などの作用の集まり。記憶力とか、そこから生ずる想起作用のことをいう。意思、意向、意志などの心の作用もここに入る。

五、判断作用の集まり。こうして知覚され、識別され、名称づけられてはじめて、判断が下される。

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  五蘊(すなわち身体と心)は、そのどれをとっても無常であるから、常住の自己ではない。身体や心を自己と見誤ることがなく、それらへの執著を断ち切れば、ついには解脱に至り、輪廻的な生存は完全に終わりを告げる。〔------〕


  認識主体(自己)はまさに認識主体であるが故に、認識対象たり得ない。「刀は自らを切れない」という譬えの通りである。

  ということは、自己は認識対象たる世界の森羅万象とはまったく別格のものであることになる。自己は言ってみれば「世界外存在」である。従って、自己は経験的に知り得ないものであるが故に語り得ないものであり、また、執著(我執)の対象たり得ないということになる。

  認識対象である森羅万象は一つとして自己ならざるものである。


  身体や心が本当の自己ではない、身体や心と本当の自己とを明確に弁別しなければならない。


  ゴータマ・ブッダは、五蘊は自己ではないと言ったが、"自己とは何か"という質問には沈黙するのみであった(自己は認識主体であるが故に認識対象たり得ず、ゆえにまた言語表現され得ない)。そして重要なのは、「自己は存在しない」(無我)とは一言も語ったことがない、ということである。


    ・鴨長明が『方丈記』の中で、


  「仏の教え給(たま)ふおもむきは、事に触れて、執心なかれとなり」


  と語っているが、これは、ゴータマ・ブッダの根本姿勢を的確に指し示す名言であるとわたくしは考える。


  ***本日の項、人間の身体が感覚器官を通じて、外界の森羅万象の情報を取り入れ、最終的に何らかの判断を下して生きて行く、ということは理解できるが、その間の[受・想・行]の境界がわたしにはよく分からない。よくは分からないが、いずれにせよ、五蘊は自己ではないのであるから、それらに捉われてはならない、とゴータマ・ブッダは言う。「無常であり、苦であり、変壊を決まりとするもの」を見て、これは自己であると考えるのは不適切であろう。これはわたくしのものではない、わたくしはこれではない、それはわたくしの自己ではない、とこのようにあるがままに(如実に)正しい智慧をもって知見すべきである、と説く。すると、そのため(正しい智慧を得る)には、やはり、正しい修行(八聖道)が必要であるというあの四聖諦という振り出しに戻るということになるのだろう(か)。やれやれ、悟りは遥かに遠い。



  (この項続く)🥀

🍃▪️【Thanks for reading.】🦜