📩◾️『親鸞と一遍』(竹村牧男/法藏館)


  ▪️《浄土教は、大乗仏教の中の一つの仏教である。大乗仏教とは、誰もが仏(覚者)となって真実の自己を実現し、また、ひたすら他者のために働いていこうとするものである。もちろん、仏となるためには、修行することが基本である。しかし、この世(娑婆世界=誘惑・苦痛・束縛の多い人間界)は、修行するのがなかなか難しい世界である。そこで、仏のいる国土、仏国土=浄土に往って、仏を目前にしつつ、そのすぐれた環境において修行し、仏となろうというのが浄土教である。とりわけ、阿弥陀仏の仏国土すなわち極楽浄土に往って修行させていただこうというのが、浄土教の基本である。というのも、阿弥陀仏は、積極的に我々を浄土に引き取ろうとされる仏だからである。》

  では、阿弥陀仏とは、どのような存在なのであろうか。また、その仏国土・極楽浄土とは、どのようなところなのか。

  以下、浄土三部経の一つ、『無量寿経』によると、


  《まず過去はかり知れない昔から、何回となく、仏さまが世にお出ましになられたという。その五十一番目に、世自在王仏という仏さまが、世に出られたことがあった。ちょうどその時、ある国王がいて、この仏の説法を聞き、感動して、仏になろうと決意する。インドでは必ずしも珍しくない一介の国王、その者こそ、後の阿弥陀仏なのである。ここを経典では、次のように記している。


  <<その時、一人の国王がいました。かの世自在王仏の説法を聞いて、心に悦びを抑えられず、自分も無上なる正しい覚りを覚りたいとの心を発して、国も捨ててしまい、求道者らの間に身を投じ、法蔵(ダルマーカラ)と名乗りました。法蔵は、知恵深く、精進してやまない方で、世間の人々とははるかに異なっていました。>>


  このように、阿弥陀仏の修行者時代を法蔵菩薩という。法蔵(ダルマーカラ)とは、真理(ダルマ)の鉱脈(アーカラ)といった意味である。あるいは、諸々の功徳の鉱脈の方がよいかもしれない。それは、ある国王が、ごく普通の人が、仏に出会い、仏に感動して、同じように仏になりたいと決意した姿であった。(原文に) "無上正真道" とある、その道は菩提の訳語であり、菩提とは覚りのことなので、それはこの上ない正しい覚りということである。サンスクリットで「アヌッタラー サンミャクサンボーディ」といい、これを音写して、「阿耨多羅三貌三菩提」と示し、意味を訳して、「無上正等覚」という。大乗仏教は、*四諦でもない、**十二因縁でもない、ひとえにこの覚りをめぐっての仏道なのである。

  この元国王であった法蔵菩薩が、やがて阿弥陀仏になっていくわけである。》


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*四諦=(四聖諦ともいう)

  ・苦諦-----この世は苦である。

  ・集諦(じったい)---苦の原因は人間の煩悩と現世の無常にある。

  ・滅諦(めったい)---執着をたち、現世の無常から逃れるのが悟りだ。

  ・道諦-----悟りを得るために八聖道によって修行しなさい。。

  

**十二因縁=

* **とも『禅のすべて』(花山勝友/知恵の森文庫)より

  

***The most wicked person should stop the war. 

War brings only death and destruction.  


(この項続く)🌲

▪️🌿【Thanks for reading.】🦜