📩◾️『神々の村-----「苦界浄土」第二部』(石牟礼道子/藤原書店
▪️前回の記事を補足するような文章に出会った。
昭和45年11月、大阪のチッソ株主総会に巡礼姿の患者ら(19名)と共に参加した頃のこと。
《ご詠歌の稽古の合間にも裁判にゆくバスの中でも、しばしば「会社のえらか人間」について話された。イメージはさっぱり結像しなかった。そして、必ずつけ加える言葉があった。
「水俣にやられる幹部は、おろよか人間かもしれん。ああも道理のわからんちゅうは」
善徳をそなえた人のことを水俣では「よか人間」という。善において徳において、いささか不完全と見れば、「おろよか」という。人間ばかりでなく細工物などにも「よか品物」と「おろよか品物」にわけられる。どこかしら、出来上りに欠けるところがあるという言い方である。自分たちの町(水俣)に来るチッソ幹部は「おろよか者ばかり」と判断したのには自己哀憐の情がにじんでいた。いくら会社でも上の方にゆけばものの道理や、もののあわれのわかる人物がいると思いたい。「出来そこない」とはめったにいわない。毒を含んで、言葉で殺すからである。よっぽど深刻なことでも牧歌的に言いならわして毒を消す。不必要に相手を串刺しにするやり方をしたら、相手より先に自分が立ち上がれないのである。人間に対する基本的な絆を踏みにじらない心性が、まだここらあたりの風土には根深く残っていた。それゆえ言葉がスローモーションの舞踏でもしているように、
「この出来そこないが」と言ってのけてもよさそうな場合でも、「まあ、おろよか人間じゃなあ」と間のびしたようにいうのであった。》
そして、11月28日、大阪厚生年金会館でチッソ株主総会が開催された。巡礼団、チッソ社員、ガードマン、総会屋、右翼、各地から馳せつけた一株株主、ボランティアの学生たち等で、会場は異様な緊張に包まれていた。決算議案可決の後の説明会に入ったとき、
《「責任を回避するような気持ちはどこにもありません。次に、二番目の水俣工場を閉鎖するかというご質問につきましては-------」(社長の発言)
「待てえっ」
という声が天井まで突き抜けた。誰の声だったろう。総立ちになった者たちがふたたびどっと壇上にかけ上り、誰が何を言っているのかわからない。社長の背広に手をかけ、何か口ばしっている者もいる。「水俣工場の閉鎖」という言葉が患者らの背中を射ぬいたのだ。患者らのおかげで水俣工場がよそにゆくと、市民から憎悪されてきたのである。
見定めて、わたしは師匠の肩にそっと手を置いた。
「行きましょう、今すぐ舞台へ」
大きくうなづいて師匠は立ち上った。》
それから、数人の患者の魂の底からの訴えが、次々、社長に対して投げかけられた。
《どこからか、お前(社長)も水銀をのめという声が飛んだ。むなしさが、舞台にも会場にもひろがった。
少数の幹部たちが社長のまわりにいた。社長を退席させるべきかいなか、この情況では判断がつかないらしく無理もなかった。舞台の上は収拾もつきかねるほど人がいれまざっていた。巡礼たちの情念や総会屋の怒号がぶつかっては散乱し、喧噪をきわめる中で社長は挨拶をあきらめなかった。言葉でなく声だけが聞こえた。それをも、徐々に無意味というものに変質して氾濫しつつあった。親がほしい、親がほしいというフミヨさんの声が、流れ落ちる瀑布の奥から湧くように続いていた。
海面の一角にふいに立った巨大な三角波のような、熱度の高い気分は急速に衰え、人間の哀れさだけが定着してゆくような場面であった。*⬇️わたしは立って呼びかけた。まったく予測しなかった自分の行動だった。
「みなさん、もう席へ帰りましょう。これ以上は無意味です。あとは天下の眼がさばいてくれるでしょう」
人びとが無言で、醒めぎわの夢の中を横切るように壇を下りはじめた。
「私たちは水俣へ帰りましょう」
水俣以外のどこへ、帰れるところがあっただろうか。》
*⬆️このときの道子さんのこころの動きは、どのようなものであったのだろう?「水銀をのめ」という発言に、「おろよか」心性を見いだして、これ以上進めば、我が水俣の風土のものではなくなる、という思いに至ったのだろうか?わたしにはわからない。「人間の哀れさだけ」が、定着してゆく、という。
**「人間誰しも、帰る所がなければならん」(ドストエフスキー『罪と罰』の酔漢マルメラードフの言葉)を思い出す。
(この項続く)🐟
▪️🌿【Thanks for reading.】🦜