📩◾️『葭の渚-------石牟礼道子自伝』(石牟礼道子/藤原書店)


  《実務学校は男女共学だと、同じ町にある女学校の生徒たちから羨ましがられていたものだが、在学中、男子生徒と口を利いたことはなかった。

  今の若者たちと、どう違うのかよくはわからないけれど、わたしたちの十二、三歳から十五、六歳くらいのころ(1939〜1943)は、たとえ顔見知りであっても、男子生徒と道ですれ違うと、互いに緊張して視線をそらし、こちこちになってゆき過ぎたものである。この微妙きわまる心理の時代を、思春期というのであろう。

  あの戦時中、二度とはない大切な時間を、日本の少年少女たちは、まるまるムダに過ごしてしまったのではないか、という想いがこの歳になっても胸を噛む。

  むざむざと特攻隊にゆく少年たちに、少女たちは「ゆかないで!」とは、ひとことも言えなかった。》


  道子は実務学校を卒業すると、校長先生の勧めもあり、代用教員として、田浦小学校に勤務した。


 終戦の日は、代用教員を再訓練するという趣旨の、佐敷のお寺で開かれていた「助教錬成所」で迎えた。錬成所はうやむやのうちに解散になり、道子は田浦の小学校に戻った。そして、ある日、同僚の女先生二人と田浦駅から帰りの汽車に乗った。すると骸骨のように痩せた少女が座っていた。どうやら戦災孤児のようだ。尋ねると、加古川から来たという。二人の同僚先生は、幾ばくかのお金を少女に渡して、それぞれの駅で降りていった。


  《わたしの降りる番が来た。前後の考えもなく、わたしは少女の手を引いて立たせ、プラットホームに降りた。彼女は手を引かれながら、ひょろりひょろりとついて来た。乗客たちが窓からさしのぞいて、わたしたちを見ていた。改札口で彼女の切符がないことがわかった。

  「切符はありません。戦災孤児で、ゆくところがわからないみたいです。病気のようだし、通してください」

  あまりにも歴然と浮浪児風だったので、駅員は息を呑んだような顔をして、すんなり通してくれた。駅の外に出ると、わたしは彼女に背を向けて言った。

  「さあ、背中におんぶされるのよ。わたしがかろうてゆくから」

  非常に素直に肩に手をかけ、おぶさって来た少女を後ろ手で抱え、立ち上がってみて驚いた。枯れ木よりも軽くて、背負った瞬間、ひょいとわたしの躰の方が浮き上がった。顔が骸骨のように見えたはずだ、と思うと涙がどっと溢れた。》


  予告もなしにこんな娘を連れて帰ったら、家の者たちがどんなに迷惑するだろうと思いながらも、道子は駅から五十分ほど歩いて、結局は連れて帰った。道子は田浦小学校での勤務があったので、タデ子(汽車の中で名前を聞いていた)の世話一切は家の者たちがみることになった。


  《「風呂はわしが焚く。その娘じょのシラミ着物は風呂の下で燃やすけん、はよう脱がせてあげ申せ。このような姿になるまで、よう生きとったのう」

  そう嘆息したのは祖父の松太郎だった。》


  タデ子は五十日ばかり道子の家にいた。


  《父がある日わたしに、「タデ子ば一生養うつもりか。おれたちも長うは生きとらんぞ。来た時とすれば多少は回復しとるけん、今のうちに帰した方がようなかか」と問うた。わたしとすれば、タデ子の世話を一人で見ているわけではなく、まるまる家の者の世話になっている。父の言うことには抗えなかった。

  「あの子はちっとも笑わんぞ。ここにおるのが、幸せとは限らん」

  父はそうも言った。》

  

  タデ子を帰すことになった。

  《水俣駅の駅長さんに相談すると、加古川を通る復員列車があるから、それに乗せればいい、切符代は要らないということになった。

(中略)

  「確かに預かりました」と兵隊さんの一人が言い、タデ子の姿はすぐに見えなくなった。向こうに着いたらポストに入れなさいと教えて、私宅宛ての手紙を持たせてやった。無事に着いたと知りたかったが、手紙は返ってこなかった。》



  *まさに、「義を見てせざるは勇無きなり」です。のちの水俣病との係わりも、当然なことと納得されます。

  先年、亡くなられたペシャワール会代表の中村哲医師といい、まことに畏敬すべき人間の典型と言えるでしょう。



(この項続く)🌲

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