📩◾️『非常時のことば-----震災の後で』(高橋源一郎/朝日文庫)
川上弘美さんの小説について語られる。
わたしの部屋の三つ隣の305号室に、成熟した雄のくまが引っ越してきた。大変律儀で、礼儀正しく、マンションに残っている(あの日以来、多くの住人が他の土地へ移住してしまったので)三世帯の住人全員に引越し蕎麦をふるまってくれた。
ある日、そのくまにさそわれてわたしは近くの川原へ散歩に出かけた。川原までの道は、元水田だった地帯に沿っている。土壌の除染のために、ほとんどの水田は掘り返され、つやつやした土がもりあがっている。
川に着き、やがて、くまは手際よく魚を摑みあげ、用意してきた小さなナイフとまな板を使って、採った魚を開き、粗塩をぱっぱっと振りかけ、広げた葉の上に置いた。「帰る頃にはちょうどいい干物になっています。」今日の二人の散歩の記念にでも、と言う。
わたしが川原のベンチの上で昼寝から目を覚ますと、木の影が長くなっていて、横のベンチでくまも寝ていた。小さくいびきをかいている。
葉の上の魚は三匹に増えていた。
そして、自宅マンションに戻ってくる。
《「いい散歩でした」
くまは305号室の前で、袋からガイガーカウンターを取り出しながら言った。まずわたしの全身を、次に自分の全身を、計測する。ジ、ジ、という聞き慣れた音がする。
「またこのような機会を持ちたいものですな」
わたしも頷いた。それから、干し魚やそのほかの礼を言うと、くまは大きく手を振って、
「とんでもない」
と答えるのだった。
「では」
と立ち去ろうとすると、くまが、
「あの」
と言う。次の言葉を待ってくまを見上げるが、もじもじして黙っている。ほんとうに大きなくまである。その大きなくまが、喉の奥で“ウルル”というような音をたてながら恥ずかしそうにしている。言葉を喋る時には人間と同じ発声法なのであるが、こうして言葉にならない声を出すときや笑うときは、やはりくま本来の発声なのである。
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。
くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。思ったよりもくまの体は冷たかった。
「今日はほんとうに楽しかったです。遠くへ旅行して帰ってきたような気持ちです。熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように。それから干し魚はあまりもちませんから、めしあがらないなら明日じゅうに捨てるほうがいいと思います」
部屋に戻って干し魚をくつ入れの上に飾り、シャワーを浴びて丁寧に体と髪をすすぎ、眠る前に少し日記を書いた。熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった》
*なんとチャーミングな、気配りの細やかな、謙虚なくまさんだろう。マンションの305号室の前、別れ際の二人(?)のやりとりは、愛らしく、哀しく、切ない。
この小説には仕掛けがあって、まず川上さんがデビューした頃に『神様』という小説が書かれ、〈あの日〉の後で、オリジナルのリメイク版、『神様(2011)』が書かれた(約20年経って)。リメイクといっても、元の小説とほとんど変わっていない。くまとわたしが出会い、散歩に出かけるのは、まったく同じ。ほんのわずか変えられた(あるいは付け加えられた)部分に、あの日を境に変わった(変わらざるを得なかった)日常と人の心の構えが窺えるように書かれている。
(この項続く)🐟
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