📩◾️『晩年のカント』(中島義道・講談社現代新書)

  ▪️芸術家は美学理論を学ばないほうがよい

  《世の多くの哲学者・美学者や芸術家は勘違いしているように思うが、「人間学遺稿」にある次の文章も掛け値なしの「真理」を語るものである。

  〈みずから美しい作品を生み出すことのできるひとは、それについて哲学することなどしないで、作品一本に打ち込んだほうがよい。哲学することなどは、思想家にまかせておけ。〉

  実際、私はいままで(真の意味で)哲学的な画家や音楽家に会ったことがない。カント自身、『判断力批判』ほどの優れた美学書を書きながら、音楽や絵画や彫刻などの美術作品に対してはほとんど興味を示さない。ラテン語の詩を除いた文学作品にも関心が薄いと言っていいであろう。オットフリート・ヘッフェも引用しているが、ショーペンハウアーは次のように言っている。

  〈どう見ても〔カントは〕*美に対する感受性をほとんどもっていず、それに加えてすぐれた芸術作品を見る機会をおそらくもたなかった。〉(『イマヌエル・カント』)

  また、ガウゼも、ずばり次のように言っている。

  〈カントは**美意識をもたない人間であった。この哲学者は芸術の中に合法則性を求めたが、それを情意をもって実感することはなかった。彼にとっては芸術はせいぜい気ばらしにすぎず、人生を美しくし豊かにする価値をもたなかった。〉(『カントとケーニヒスベルク』)

( ⬆️*  **  これほどまで、ハッキリ言われるとは、カント先生も反論したかってのでは、と思ってしまうのですが---。)

  (略)

  哲学とは、「言語」という特定の手段によって成り立っているからであり、哲学者とは言語(あるいは言語と世界との関係)に対する独特の信念をもっているからである。それは、「世界とは言語によって構築されている幻想かもしれない、いや、そうでもないかもしれない」という疑いに、あるいは「言語が真実を正しく表現しているのか、そうでないのか」という問いに、寝ても醒めても神経症的にとらわれている人種のことだからである。だから、系統的には、同じ言語を扱う詩人・作家・文学者が哲学者にいちばん近いのであるが、「いったい世界はあるのか」という存在論にコミットしない者は哲学者ではないとすると、ほとんどの詩人・作家・文学者は哲学者ではないことになる。》


さて、ここまで来て、ふたたび、「はじめに」の次の箇所に戻りたくなりました。それは、

《カントにとって、「課せられているが、解答することができない問い」とは神の現存在であり、魂の不死であり、自由であった。私の場合、この三つが「私が現にある」とはいかなることか、という唯一の問いのかたちをとって、私に迫ってくる。「私が現存していること」に、偶然を超えた何らかの確固とした理由があるのであろうか(これが神の現存在の問いにほかならない)?私は死んでしまったら完全な無なのであろうか(これが不死の問いである)?そうだとすると、生きることに何の意味があるのであろうか(これが自由〈善悪あるいは生きる目的〉の問いである)?私は、これらの問いに確定的に答えることはできないことを予感しつつも、これらに関わり、これらに引きずり回されている。なぜなのか?この人生において、どうしても他に価値のあることを見出せないからである。》


  というものです。中島先生は、他の著書でも幾度も、この考えを述べておられます。少年期から抱いてきた問いや疑いと、カントにずーっと寄り添うこととが、幸運な共鳴(?)を成している、と言ってもよいのかもしれませんし、年齢とともに親近感が増してきた、ということもあるのかもしれません。
  今、手元に中島義道著『「私」の秘密』---哲学的自我論への誘い』(講談社選書メチエ)があり、’03年に読了していますが、当時はよく理解できませんでした。今読み返せば、少しは分かるかも---。
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Thanks for reading.

▪️【To  be continued.】🌺🌿🌷