【2022年5月22日追記】

この感想の最後に映画「ハーモニー」を観た感想を追記しました。】

 

※※ この本を読んで一言 ※※

「言葉」に続き「意識」!

とても伊藤計劃さんらしさを感じました。

そして人間とはどういう状態が「幸せ」なのか考えさせられます。

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伊藤計劃さんの作品は「虐殺器官」を読んでいましたが、読書の先輩から「ハーモニー」と「屍者の帝国」は本もアニメも面白いと教えていただいたので、まずは本から読んでみることにしました。

 

物語の時間軸は「虐殺器官」から約半世紀後なんですね。

読み始めてしばらくは、ミァハとトァンの視点から舞台は「近未来的な管理されたディストピア」の印象を持ったのですが、読み進めていくと物語では強制されているというのとは違う「医療合意共同体(生府)」という思いやりに満ちた社会(?)でありようです。

 

「大災禍」を経験した後ではそんな社会の構築も無理はないでしょう。

作中では「大災禍」を経験した「老人」ほど再び世界が混乱するのを恐れているとありました。

 

一方でそんな社会でも若者の自殺が増えているとあります。

道徳に溢れたキレイな世界になじまない者は一定数いるでしょう。

それを良しとするか、管理された息苦しい社会と感じるかは人それぞれだと思います。

 

それでもこの作品を読んでいるこっちが息苦しくなりそうな描写です。

もっともそれは最終章でネタバレされていますが、この物語は人類から意識が消えた後にトアンの主観で書かれたという記述であったからです。

そして鬱陶しいと思っていたHTMLタグに似た<タグ></タグ>は、実は意識が消えた後の人類の喜怒哀楽の表現を表すものであった事が分かります。

 

トァン視点だと思いやりに満ちた社会でも、『慈母によるファシズム』と言えるのでしょう(汗)。

 

さて私はこの物語は「意識」の在り方と「人の幸せ」について伊藤さんなりの表現であり得そうな結論の一つを示したものだと思います。

 

「意識」といっても医学的、精神学的、哲学的、宗教的など捉え方はいろいろあるようです。

私は古い人間なので意識に対して他人が介入するのに嫌悪感はありますし、物語のように強制的に変えられるのは嫌だと思います。

しかし大災禍を経験したら、人間の愚かさ・醜さを野放しにするくらいなら・・と思うかもしれません。

 

現在の社会は2年ほど前からは感染症によるパンデミックが起こり、今年に入って戦争が起こり、社会が激変する可能性のある話題が尽きません。

 

なんだか「ハーモニー」の物語をなぞって進行しているようでうすら寒くなります(汗)。

 

しかし伊藤さん自身は未来を予知したわけではなく、現代の社会の問題点を把握し、それにより人類がどうなるかの一つの可能性を物語として示したのだろうと思います。

物語のような大災禍が起こらず、みんなに明るい未来が来て、みんなが幸せになることを望みます。

 

ここからはとりとめもなく思いついた雑感を書いていきます。

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ミァハが思うように、自分の体が「社会のリソース」という考えのもとで、公共性を押し付けられるのは嫌です。

体も命も社会のものではなく自分の物でありたいと思うのは現代の日本に生きる人からすれば「基本的人権」と言えるもので当然の感覚でしょう。

 

もっとも昔は人権なんてものはなく、現代でも社会体制によっては体も命の国の物だったりしますからね・・恐ろしいことです。

 

ミァハがなぜ日本に来てからも自殺を図ったのでしょうか。

生府による社会も地獄だと言っていますが、戦地に比べたら生きやすいと思いますが・・

ミァハにしてみたら生きるというのは肉体の問題ではなく、「意識」の問題なのでしょうか。

もともと「意識」がなかったのに「意識」を持ってしまったがために、今を生きること自体が苦痛だったのかもしれませんね。

肉体の苦痛があった方が生きている実感を味わえるという感覚なのかもしれません。

そして生府の管理する社会では痛みが絶滅した社会では、「死んでるみたいに生きたくない」(渡辺美里さんの歌のタイトル)のような思いだったのでしょうか・・。

 

生府による慈愛に満ちた社会は、今のマスク社会をもっと極端にしたもののような気がします。

 

特に今の日本では「自分のため(感染防止のため)」「他人の迷惑にならないため(他人に感染させない)」「みんなしているから、マスクを外して他人を不快にさせないため」という思いで、みなさんきっちりマスクをしているのではないでしょうか。

こうしてみると理由の半分以上は「他人のため」ですね(汗)。

 

どうしても私に理解できないのは、意識のない人間、逡巡しない人間って存在できるのでしょうか?

そもそもミァハの民族はどうやって生活していたのか?

ヌァザの説明では意識はなくても文化はあるとのことですが、そういう民族に文化は必要な物だったのでしょうか。

 

また民族内の争いごとはなかったのでしょうか。

ミァハが凌辱の中で意識を持ったというならば、ミァハの一族でも生活の中で怒り、憎しみ、絶望の中で後天的に意識を獲得(退化(?))した者が一定数現れたのではないかと思います。

 

またラストでは『人々は哀しみがあるように泣き(中略)内面というものが消し去られたからである』と記述があります。

内面が消し去られたら、怒る必要や笑う必要がなくなると思います。

 

そしたら何のために生きていくのでしょう?

食べるため?子孫を残すため?だったら生きていくうえで必要最低限のことしかしなくなる気がします。そして富を得よう、他人に認めてもらおう、異性に気に入られようという気が起きなくなるのではないでしょうか。

そうなると向上意欲や勤労意欲やなくなり、社会の維持ができなくなるのではと思います。

 

しかしもしかしたら意識はなくても思考はあるので、各個人が誰に命令されるわけでもなく、生府や国や社会を維持するために自分の能力や適性に合わせた仕事に就き、社会を維持していけるのかもしれません。

 

さらに生きる、食べる、子孫を残すという欲求があるなら、「死にたくない」「より多く食べたい」「よりたくさん子孫を残したい」という欲求もあるのではと考えられるので、その過程で軋轢が生じそうな気がしますが、意識のない人達ならば争うことなく、迷うことなく解決できるのでしょうか??

 

う~ん・・考えれば考えるほど分かりません(笑)。

 

物語でもチェチェン紛争のロシアの介入の記載があります。ミァハがチェチェンの少数民族だったため、ロシア軍による地獄の日々が始まったとあります。

現在はロシアとウクライナとの戦争があります。

私には何が正しいとか、どちらに理があるとか判断できるほど情報も知識も考察する根気もありません。

ただ軍人による暴力行為・虐殺行為は許されるものではないと断言できるでしょう。

 

民族問題や国境問題は歴史的に根深く、どちらかの言い分(正当性)を通すためには歴史をどこまでも遡る必要があり、それこそ言い出したらキリがありません。

やはり現状では「力による現状変更を認めない」として話し合いで解決することが一番なのではないでしょうか。

 

WatchMeがない人も確か全人類の2割程いたはずです。

ケル・タマシュクはWatchMeをインストールしているようですが、過激なゲリラがインストールしていない場合、大多数の生府側の人間は今後どう戦うのでしょうか。

 

「意識のある人間」対「意識のない人間」の戦争は、分かり合うことはできるのでしょうか。

もし分かり合えないなら、意識のない人間は迷わないので一気に殲滅戦になり、余計にひどいことにならなければいいですが・・

 

もし私が「一人一殺」宣言を受けたらどう行動したのでしょうか。

きっと人を殺すことも自殺することもできずに1週間が終わるでしょう(汗)。

それが人として正しい行動だと思いますし。

 

しかし1週間以内に人を殺さなければ自分が自殺に追い込まれるような状況になった時に、自分が生き残る方法をみんな考えるでしょう。

 

そこで私も考えたのですが・・

「自分を椅子に縛り付け、椅子も倒れないようにして、舌を噛まないようにして待つ。」

でもこれだと自分で拘束するのも難しいですし、その後どうやって拘束を抜けるのか、いつまで拘束していればいいのかなど問題があります。

 

そもそも遠隔で「この人は人を殺した。自殺は免除」と判断ができるものなのでしょうか?脳内物質や拡現の映像から自動で判断するのでしょうか・・など疑問は残りますが、結局自殺に追い込むのは嘘だったようなので、そこまで考える必要はなかったのかも知れませんね。

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次は「屍者の帝国」を読み、その次はハーモニーと屍者の帝国のアニメを見ようと思います。

伊藤さん尽くしです(笑)

 

(個人的評価)

面白さ    ☆☆☆

驚き     ☆☆

「幸せ」とは ☆☆☆☆☆

人類の未来  ☆☆

 

【アニメを見た感想】

小説で読んでイメージしていたキャラクターや世界の風景が美麗に描かれ、キャラクターが生き生きと動き・しゃべるのでとても分かりやすくそして面白かったので約2時間があっという間に過ぎました。
キアンの自殺シーンは想像していたより迫力がありましたし、近未来の建物や乗り物のシーンとバグダッドやコーカサス地方の大自然の風景がアニメならではの表現で素晴らしかったと思います。

 

ストーリーは大体原作どおりに話が展開したので驚きは少なかったです。

しかし当然原作とは細かく違うところもあり、その違いを知ることが楽しみの一つです。

 

その中でやはりラストのコーカサス地方でのやり取りが原作とアニメの違いが印象に残りました。

アニメの方が時間の制約があるせいか、小説ではいろいろ修飾されていた部分を簡潔に表現していたようで、ことろどころに出てくるミァハの言葉により語られる行動理念やトァンの想いがより分かりやすく表現されていたように思います。

 

ただミァハを撃った時のトァンの心境もアニメと小説では、小説の方が「復讐」がよりはっきりしていたように思います。

アニメの方は「ミァハの思い通りの(人類が意識を持たない)世界にミァハを連れてい行かない」といった父やキアンの復讐とミァハへの愛がない交ぜになった状態で撃ったように思います。これはアニメの方がトァンの心情は分かりにくいです(汗)。

 

欲を言うなら原作でのトァンとミァハが山を見ながらミァハが息絶えるシーンや、WatchMeがつながってトァンの意識が消えるシーンも表現してほしかったと思います・・アニメで表現されていたらさぞ綺麗だったことでしょう。

 

ところで最後にモノリスのような物(コンピューター?WatchMeの本体??それとも人の意識を具現化したもの??)の前で文章を見ていたのは髪型から判断するとキアンですかね~。その人の持っていたケースに「TSE」と書かれており、劇中ではミァハたちの制服に「TSE」と刺繍されていたから、その点からもキアンかなと・・

 

そもそもアニメのモノリスのような物は小説ではトァンの物語を記述していた”記憶装置”に該当するものだと思うのですが、「トァンの物語が終わる=人類の意識が消える」時に立ち会っていたという事は意識が消えなかった人類という事でしょうか。

うーん・・これは考えてもわからないことでしょう。

 

さて最後にどうでもいことを・・

小説でも思った感想ですが、WatchMeをインストールしていない人がまだ百万単位(もしかしたら億単位)でいると思われる状況下で、ハーモニープログラムを発動させても多くの人の意識がなくなりますが全員ではないので、結局世界は平和にならないと思うんですが・・アニメを見てさらに強く思いました(笑)。