3.11に思う

 

僕らは本来「無」であること

 

本来何もない。何も持っていないということ。

 

もちろん、人間として、現象界で豊かに色鮮やかに何でも体験する。

 

しかし少なくとも「無」からスタートしたい

 

なぜなら…

 

2011年3月11日、甚大なものを失った。

 

あの時、日常がいかにありがたいか悟ったはず

 

が、時間が過ぎれば簡単に忘れてしまうから。

 

水が飲めるだけでありがたい

衣食住がある。

なのに、何の不足を感じる必要があるだろうか。

 

なぜ僕は前進することに集中しないのだろう?

なぜ全力じゃないのだろう?

 

神≒「無」は、全てを味わう

 

そして、「無」=<私>だから

<私>は全てを味わう、楽しむ、満喫する

今できることを