善和(よしわ)は、和を善しとする、つまり仲よくするという意味で、平和を祈願して名付けた地名で、善和八幡宮もこのために建てられた神社である。

 
 
 宇部市街地から二俣瀬に抜ける霜降山入口あたりを善和という。この地区は厚狭郡(舟木宰判)と吉敷郡(小郡宰判)との住民の境界争いが長い間続いた土地であった。
 むかしの農家の人たちは山に生えている木はもちろんのこと、山野の下木や雑草も大切に利用していた。下木は燃料として、また雑草は馬牛のえさや肥料として使われた。従って土地を持たない農民たちは薪や下草を手に入れるのに大変苦労したのである。

 

 

 享保のころ(1716年~)は藩政府が産業振興のため山開作を進めていた。善和のあたりは周防国と長門国の境界があいまいであったため、船木、小郡両宰判が集まって協議をしたが、主張が合わず争いは相変らず絶えなかった。

 白松、車地、佐山、吉見、持世寺、井関の各村が関係し、庄屋や畔頭(くろがしら)が度々集まったり、文書を提出したりしたが、決定が困難なためとうとう「間地(かんち)」としてどこにも属さない土地としたのである。

 しかし、天保八年(1837)から慶応元年(1865)にかけて主に丼関村、岐波村の住民による下草採取のための侵入傷害事件などがあったりして争いはなおも続いた。

 

 

 そこで萩藩は間地の二百八十石を車地、井関、佐山の各所から切り離して独立した宰判を作って争いを収めた。そして慶応四年四月には役場である勘場を置き、善和宰判としたのである。

 部落として固まると、鎮守様を祀るのが当時の習わしである。明治三年(1870)三月に山口今八幡宮の分霊を勧請して神社を作った。 

 

 

 明治六年には郷社に列せられるほどの神社であった。

 今、県道のすぐそばにある一の鳥居のところには踏み切りなしの山陽本線が通っているので通る人はほとんどなく、善和園へ行く道から本殿の横に出る道を利用している。

 境内に開闢(かいびゃく)二百年記念の碑がある。国司(くにし)男爵の書になっているが、万倉の殿様の所領であった関係であろう。 
 国道2号線の割木松に周防・長門の国境の碑がある。この碑は慶応四年、善和宰判が設定された時に建てられたのでないだろうか、と長谷川卒助氏が「宇部地方史研究」に書いている。

(2011-07-19 撮影)