宇部の中心街がまだ松原だった頃、宇部村の中心である上宇部から藤曲方面に行くには鎌田橋を通り、宗隣寺の横から小串に出て浜の方へ抜けていた。今の小串のバス停を横切るとそこは湯田という所で、昔は米を収める所があった。現在、そこには小串小学校跡という標識が建てられている。
明治五年に小学校令が出て、宗隣寺に初めて学校が開かれた。明治六年末には中尾に宇部小学校、明治十七年九月にはここに小串小学校が出来た。明治十八年に寺の前に大きな宇部小学校が出来て合併するまで約十年間、小串小学校があった。
小串バス停周辺は道路が作りかえられて標識も無くなっています。
旧領主の福原芳山公が外国から帰った時、真締川の堤から小串小学校の新校舎を眺めて「帰ったら建てようかと思っていたが、もう建ったか」と喜んだという話が残っている。当時、宇部小学校が九十人、小串小学校は六十三人の児童数であった。
学校跡から少し西に行くと道のそばに南向きの地蔵様がある。ここの地蔵には「子だかしょう」話が伝わっている。
①女に頼まれて赤子を抱いていたら赤子が地蔵になった。
②女の亡霊が毎晩出るので地蔵を祀った。
と、二通りの話が伝えられている。
この少し北にも道があって、ここでは女から預かった赤子がだんだん重くなったが、我慢していたので、後で女が字が上手になるようにお礼をしてくれたという話が伝わっている。
「子だかしょう」の話は形は違うが、二俣瀬や東岐波などにも残っている。夜遅くまで子どもを遊ぽせないように作られた話であろう。
黄幡山の北にも蔵があり、殿様道、あるいは往還道といわれていた道がある。新川のふるさと運動部会によって白い標柱がたてられているのですぐわかる。
殿様道を出た所に小串の北向地蔵がある。昔はさびしい所で、牛の首や足が出たので、霊を鎮めるために祀ったといわれている。




