1400年余りもの昔、豊後国(大分県)に炭焼きから身を起こした満野長者がおり、その子どもに般若姫という大変美しい娘がいた。その美しさは遠く都まで伝わり、ときの帝の第四皇子橘豊日尊が、是非自分のお妃にしようと決心された。皇子は「牛飼いの山路」と名を偽り、はるばる豊後に下って長者の館へ住み込み、さまざまな苦労の末に姫と結ばれたのであった。

 しかし、皇子の行方が知れて都に戻らねばならなくなり、皇子は身ごもっている姫に、「もし生まれた子が男であれば一緒に都へ上がれ。女なれば家の跡目をつがせて姫だけ上洛せよ」と言い残して行かれた。

 やがて生まれたのが女の子、姫は大勢の伴船とともに単身都へと出帆した。ところが、一行が柳井湾から大畠瀬戸にさしかかると、海は大荒れ、一度柳井にまで引き返し、再び出帆したが、またも大嵐。しかも伴船の多くが沈没したので、姫は「これは竜神の崇りに違いない。わたしが海に身を沈めて竜神の怒りを鎮めましょう」と、「かりの世に何なげくらん浮船のいづこを宿とさだめおかねば」の辞世を残し、渦巻く大畠瀬戸に入水した。

 すると、たちまち波風はやわらいだという。ときに、姫は十九歳であった。この姫の尊い犠牲によって救われた船人たちは、姫のなきがらを、遺言通り瀬戸を見下ろす神峰山上(熊毛郡平生町) に手厚く葬ったのであった。

 

急流の大畠瀬戸

 

 

 

 

 

神峰山 神峰山という山はなく般若寺一体の山を総称して神峰山とよぶようです(般若姫寺住職談)

(2015.08.23)