ところで、神功皇后は、のちの応神天皇を御懐胎の御身でありながら、仲哀天皇亡きあとも神のお告げにしたがい、熊襲を牽制するため三韓親征を決意され、そのためにはまず軍船の建造が急務とされた。

 そうした折も折、皇后は行宮――豊浦の官の東方に楠の巨木のあるのを聞かれて大変に喜ばれ、これを用材として軍船の建造を進めるよう武内宿穪に命じられた。

 さて、その楠とは、枝はのびて四周四、五里にも及ぶというふうで、四里ばかりのところでも夏の木陰はひんやりと涼気漂い、したがってこの北側二里ばかりは陽が遮られて昼なお暗く、ためにそのあたりは「真闇の里」といわれた。

 のち、和銅年間(七〇八~七一五)に「真闇」が「万倉」に改められたのが現在の楠町万倉であり、また、西の方は朝陽がささぬところから「朝陰」といい、これがそもそも「厚狭」(山陽町厚狭)の地名の起こりと伝えられている。

 以前、寝台特急が厚狭駅に停まるころ朝になっているから「厚狭」と呼ぶようになったという話を某大学教授から聞いたことがあります。最近まで信じていましたが、嘘だったですね(笑)
 
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現在の厚狭は新幹線が停車する街になっています。
 
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美祢市の万倉には大岩郷という観光スポットがあります。学術的に貴重なものです。
 
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 大きな岩がゴロゴロとあります。不思議な風景ですが、地質の専門の後輩に聞くと写真をみただけで「土石流の跡ですね」といわれました。
 
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