とにかく、敗走の仲哀天皇の一行は貴飯まで来てようやく食にありつき、ほっとひといき生気をとり戻したものの、もうそこにまで熊襲の追撃は迫っていた。

 一行は早々に貴飯を出発し、やがて歌野(宇多野)の追分にさしかかったが、そこの草屋の軒下に一人のうら若い女がたたずんでいた。

 先頭にいた武内宿穪は、女に近づいて一行の行方をかたく口どめすると、それより道を左にえらんで華山の方ヘと急いだ。

 それから小半時もたったころ、獰猛な顔つきの一群の騎馬武者たちがあらわれた。熊襲の軍勢であった。その先頭の一騎が、さきはどの若い女をみとめて馬をとめ、天皇の一行の行方をたずねた。女は、先刻の約束を守って黙っていたが、太刀を抜いてふりかぶった武者の恐しさに、小さな頤を、左へ二度三度と振ってみせた。と、それっと一群の武者たちは左の道へと駆けだして行った。熊襲の軍勢は歌野を北に進んで、またたく間に天皇の軍に追いつくと、いっせいに矢を射かけ、太刀をふるって攻めかかった。

 こうして、仲哀天皇はこのときの戦いの矢のために、ついに薨去されたと伝えられている。さても、この歌野の追分の若い女の破約から、ついには天皇の御戦死という大事をまねいてしまったのであるが、賊に道を教えた件の若い女にはたちまち天罰がくだって、唖になってしまったという。

地図でみると「歌野」のすぐ北が仲哀天皇殯葬所です。
 
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現在、歌野は人家もまばらな静かな山郷。
谷の奥には西の嶽が望まれます。
 
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