「周防長門の伝説」では山口県に残るいるいろな伝説が紹介されています。
この本の伝説の地を紹介します。
 
イメージ 1
 

仲哀二年(193)、仲哀天皇は神功皇后と、九州の熊襲が叛乱を起こしたので西下され、
北九州の豪族クマワニの出迎えをうけ、周防の佐波ノ浦から軍船を率いて九州に向かわれたという。
すると、クマワニと同じ北九州の豪族イツデも、長門の引島(ひけじま)まで迎えに出た。彼らの案内で洞海を通って坂乱を起こしたので西下され儺県(なのあがた)に着き、九州の橿日(香椎) に行官を建てられたという。

この引島とは、関門海峡に浮かぶ今の彦島(下関市) で、海上はるかに九州・朝鮮へ通じ
る。彦島の沖の六連島は『日本書紀』にいう没利(もとり)島、藍島は阿閇島(あへじま)である。 『(周防長門の伝説』より

伝説のスタートは防府市です。
現在の地図でみるとこのようなコースを辿ったんでしょうか?
 
イメージ 2
 
娑婆(佐波)の浦に浮かぶ島であった田島・西ノ浦は、寛永[かんえい]5年(1628年)毛利藩最初の公儀開作、「潮合開作」の築立てによって陸続きとなり、以後周辺には塩田や新開作など八カ所の海開作が開かれて現在の西浦となった(西浦文化研究会HPより)
今はたくさんの家がありますが、500年前は海だったんですね。
 
イメージ 3