習志野シティフィル第61回定期演奏会
開演14時於習志野文化ホール

今回のプログラムは運命をテーマに幾分重い運びとなっている。ここに記すことがらの幾つかは私の中に湧き上がるものであり、それを演奏会で表現しようとするものでもない。そこはかとなく聴き手との中で共有出来るならそれで十分である。

今回メインで演奏するチャイコフスキーの交響曲第5番は5年前の3月20日に演奏する予定だった。

この10日前に大震災がおきて、習志野文化ホールも甚大な被害にあって演奏会は挙行出来なかった。演奏会当日はホールの一角をお借りして、いらしていただいた方の対応をした。

その後、長尾さんの御好意によって1年後にラフマニノフのピアノ協奏曲は演奏することが出来た。

そして震災から5年が経って、あの日に演奏出来なかったチャイコフスキーを今回演奏することになる。

運命に翻弄されながらそれを受け止めて進む姿を描いた交響曲は、震災から5年経った今は様々な思いを聴き手にもたらすであろう。そして習志野シティフィルにとっては当時練習していた曲であり、震災からのリベンジを果たす意味も持っている。


前半で演奏する「ペレアスとメリザンド」と「悲劇的序曲」は、震災当時の気持ちを確認することもできるだろう。

時を遡るからこそ見える情景がペレアスとメリザンドに浮かんでくる。1曲目の穏やかでありながら何か厳しさも伺える響きは北国の暮らしを感じ取る。終わりに予兆を思わせる音楽。2曲目では三陸の海と波を連想できるだろう。それはシチリアーノの中間部の輝きにも伺える。そして4曲目ではあの日のことが思い出される。最後の部分は魂が天に昇っていく。

悲劇的序曲は、ペレアスとメリザンドで消えいった終結音と同じ和音を叩きつけて始まる。苦難は続いていくのである。しかしながらブラームスの音楽には慈愛に満ちた旋律や、広い高みに来たような、希望を感じる部分がある。希望と苦難が混ざり合いながら音楽は進んでいく。

これを受けてチャイコフスキーの交響曲第5番は絶望から起き上がっていく。運命からの勝利ではなく、運命とともに力強く歩んで行く道を示していると思う。

これからの幾分辛い聴体験が希望に向かうことを予告する為に、プログラムの序として「運命の力」序曲を演奏する。プログラム全体は歌のないオペラのように進んでいくことになる。


私個人は、震災前の秋、車で花巻へ仕事で行った帰りに、釜石まで出て三陸海岸を南下するドライブをした。松島の絶景を見て、福島原発の近くのガソリンスタンドで給油して私の車について店員さんと少し話した。亘理の広い平地の中の道も走った。

震災後は三陸鉄道を応援し、南北リアス線開通のときに使える切符を久慈駅で購入、一昨年の全線開通の折にそれを使って再訪した。田老駅にも降り立ち、その茫洋たる光景を目に焼き付けてきた。全てを流されたが再興した島越駅に降り立ったときには勇気と希望をもらった気持ちになったが、あたりを歩いて駅以外に何もまだない光景をみると道半ばの思いになった。

私の体験は瑣末なものだが、復興というものはまだまだ続いていくものなのだという思いを強くした。であるから、それを受け止めて眈々と力を込めて歩んでいこうという思いを持ちながら、今回の演奏会を進めていけたらいいなと思う。