19世紀の交響曲等の作品を見ていくと、「mp」いわゆるメゾピアノの表記がないことに気づくだろう。

mezzoは半分の意味であり、mezzo forte は「強さを半分」となる。

対してmezzo pianoは、「半分の弱さ」となり、弱さの頻度を半分にするのか、弱さそのものを半分にするのかが定かでなく、正反対の意味を包含してしまっている。

前者が一般的に流布している意味であるが、ヘンデルのメサイアの中の「Pifa」には後者の意味ととるべきであろうLargo e Mezzo Piano の表記がある。クリスマスの厳かな情景を表す曲に中途半端な音量を設定したとは考えにくい。

シューベルトの未完成交響曲では、フォルテの領域でのレベル変化はmf・f・ff の三種で表すのに対して、ピアノの領域はp・pp・ppp の三種で表されている。このことから考えるとpのダイナミックスの発想を転換しなくてはならない。

そもそも、日本ではメゾピアノを加えて音量のヒエラルキーとして教育されてしまうので、メゾピアノを念頭に入れた演奏スタイルをとってしまう。

今日、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲と愛の死を演奏したが、ここにもmpは見出だせなかった。

果たして、イタリア・ドイツの演奏家は、このmpの存在についてどのような認識を持っているのだろうか?

音量について細かく規定しているチャイコーフスキの交響曲第5番においてすらmpの登場はわずかである。その中でも第4楽章に見られるクレッシェンド・デクレッシェンド記号を伴うmpは周囲の状況から推察しても、pより少し大きい音をイメージしていたことが判る。

mpがない世界に身をおいて、譜面を眺めると、pの表記の部分から豊かな音楽が沸き上がるのを感じるだろう。