唐突ながら「善魔について」というエッセイの冒頭です。
『遠藤周作文学全集13 評論・エッセイⅡ』の巻末「解題」によると、初出は1974(昭和49)年10月21日の「朝日新聞」夕刊とのこと。
そう続けた遠藤さん。
と書いて、つまり「善魔」とは「自分たちは正しいと信じて疑わな」い、あるいは「自分たちが間違ったことをやっているとは思いもしな」い人々のことだと説明しています。
そうして「善魔は現代の世界で至るところに見つけられる」と指摘し、後、おもむろに「善魔について」の考察。
というわけで、ここからは野暮だと知りつつ「人の口を借りてモノを言う」ワタクシの意図なども織り交ぜていきましょう。
「人を感染させないために無症状でもマスクを着用しましょう」「お年寄りや身体の弱い人を守るために人との接触回避に努めましょう」・・・はびこる正論、善意の言葉。
あるいは、自分の意に沿わない人を陰謀論者として括り、まったく聞く耳を持たなかったり。
飲食・観光・娯楽、運動会・文化祭・修学旅行・・・不要不急とされ、生活必需品でないと烙印を押されるモノ・コト。それに携わる人々、それを失う青い春達の哀しみに思い至らない。
そして結語です。
善魔世に憚る御時世。なるほど、と言うしかありません。
二十一世紀に贈る国民作家遠藤周作の貴重な遺産。「永井荷風」から、「弱者の救い」「一枚の踏絵から」「異邦人の苦悩」を経て、晩年の「老いて、思うこと」まで。後期の評論・エッセイ九十三篇。
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人を想う心は尊く美しい。
けれど、それを人に強要する時、同じ心が卑しく醜いものになる。
そうだ。
分からんチンだって悪とは限らない。
彼らは彼らなりの不安を信じることで安心しているのだ。
彼らなりの渡世術なのだ。
ならば、せめて彼らの幸せを祈ろう。
もう、それで良いです。
・・・とか思います。
自分自身、善魔に魂を売るようなことをしちゃダメだ。
・・・とか思います。
国の内外問わず、その中止を主張する人々の渦の中心には「日本政府が困るなら何でもいい。でもって、それが某国の利益につながるならもっと良い」くらいに考えている輩がいると思われる・・・
東京五輪について。
産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)の合同世論調査で、東京五輪・パラリンピックの開催について聞いたところ、「中止」との回答が4月の前回調査に続いて半数を超えた。感染収束が見通せず、悲観的な見方が広がっている。
「はあ、そうですか。ホント、日本人は“いい人”が多いんだなあ」と言うしかないんですが・・・こんなニュースもあったりして。
国際オリンピック委員会(IOC)のコーツ調整委員長は21日、東京が緊急事態宣言下でも今夏の大会を開催する考えを示した。「宣言が出ていようと出ていまいと、われわれが取っているすべての対策で安全な大会は可能だ」と語った。
五輪の開催or中止を決められるのはIOC。なんだけど、IOCはね、決して自分から中止は言いませんよ。莫大な金が絡む話ですし。
てか、国際基準で言えば、日本の状況はやはり「さざ波」でしかなく、それで緊急事態宣言なんて、それ自体がちゃんちゃらオカシイ、という話かもしれません。
さらに、こんなものも。
国際オリンピック委員会(IOC)は22日、東京五輪の中止に関する報道内容を否定した。
声明で「新型コロナウイルスに対するあらゆる予防措置を実施し、今夏の安全かつ確実な五輪開催への準備に引き続き取り組んでいく」と表明した。
日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長は、報道について、間違っておりコメントするのもばかげていると一蹴した。
これに先立ち、英タイムズ紙は、日本政府が新型コロナウイルス感染症流行のため東京五輪を中止せざるを得ないと非公式に結論付けたと報じた。
これもね、多少誤解を呼びそうな記事タイトルになっているのが気になるんですが・・・
やはり、IOCから中止を言う気はない、ということで。
ただ、ニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ロサンゼルス・タイムズ電子版などが、時折「東京五輪中止報道」を繰り出しているのは事実。
でもほら、そういう海外メディアの日頃の日本報道を鑑みるに・・・
「悲しいけど、コレ(情報)戦争なのよね」
・・・といったところ、でしょうか。
ひねくれ者のワタクシとしては、だったら意地でも開催しなきゃ、とか思ったりするんですが、もちろん同じ結論を強要したりはいたしません。
人それぞれで良いのですが、ただ五輪に関しては、コロナ云々だけでなく、もちっと広い視野でもって考えてほしいなあ、くらいは言っておきます。