1178号「塾生への檄文 1」


砂辺光次郎

講義録1178

(2008/06/10)


私たちはまだまだ弱い。


人に何か言われるとそれだけでぐらつく程度だ。


私たちは子を守る母ほどに強いであろうか、と問うと、まだまだそこまで強くはないと答えざるを得ない。


それはなぜであろうか。


私たちはまだまだ安っぽい光明思想に乗っかっているだけなのだ。


そんなものでは、他人に一発非難されただけで、すぐ腰砕けになる。張り倒されたら腰が立たなくなる。


「自分が好きだからこれをやるんだ。」というぐらいのレベルだからだめなのだ。

そんなレベルでは壁は突破できない。空間は曲がらない。現実を超えることはできない。逆風は突破できない。


マルティン・ルター、吉田松陰、ジャンヌダルクはなぜ奇跡を起こすことができたのか。

なぜ現実をぶち破ることができたのか。


それは神の命に生きたからだ。


「大好きなこと」だけでは頓挫する。

勇気なんか出るわけがない。


己れの心が真実であり、邪な心がなければ、天も応援してくれるはずだ。


天が応援する自分であるのかどうかを振り返ってみることだ。


世のため、人のために本当にやっているのか。


そこが問われている。


自らが立ち、己れの力で天を突く志を持たなければ、とてもではないが天は感応してはくれない。


棚からぼたもちは落ちて来ない。天からのプレゼントなどは簡単には降りて来ない。


天は、下から突き上げてきた、天を突く熱い志に対してのみ反応する。


天の応援は、今の自分の念いが本物かどうか、情熱は天を突いているのかどうか、そこまでの志はあるのかどうか、それを示す指標となる。


まずは己れの志を高めることだ。天を突け。そうしてはじめて天は感応する。


そして、愛の闘いになっているのかどうか。

まだまだ己れの狭い欲得のとりこになっているのではないか。

それが問われているのだと思う。


勇気と奇跡を実現するために、

愛の闘いをしなければならないと思う。


真実のため、愛のためであれば、爆発的なチカラが出る。


ガンジーや行基菩薩や坂本龍馬はなぜ金剛身となって闘うことができたのか。


その根源は、「天命」である。

己れの人間心をはるかに越えた天の意思に生きたからである。


宇宙の意思を体現することで勇気が出る。


宇宙の意思、天命、天の意思、天の大計画を背負って立てば奇跡が起きる。現実を突破できる。


私たちはまだまだ自分のために生きているから弱いのだ。


強くなるには、使命・天命に燃えること、人々のために生きること、人類の目標と真実と愛のために生きること、そこが要なのだ。


その戦いの過程でまたさらに一段と強くなっていく。そういうものだと思う。


使命・天命に生きることで私たちは金剛体になるはずだ。


この世的な、中途半端な、人間心で思い浮かんだような、自分の狭い欲望のための、欲得のための、そんなことのためでは本物の勇気は出てこない。

なぜなら、真実の大義名分がないからだ。

大義名分のないところに本当の強さは出てこない。


大義名分が背骨となる。


本源的な真実のため、宇宙の大目的に沿った使命を背負っているならば、堂々と進むことができる。


威風堂々となる。

勇気はこうして醸成される。