お昼になると「天にますます我が父よ、願わくば」
なんて祈りを捧げてからお弁当を食べていました
今、考えると変なんですよ
実父の祖母は山岳信仰で御嶽山を信仰しながら
仏教徒であり、家には立派な神棚までありました
んで、兄と僕が通っていた幼稚園はキリスト教
勿論、この時期になると
幼稚園ではキリスト誕生を模した
劇を行い、父母に見せるのです
僕はマリア様の父親役?やったような
覚えがあります
僕は何処の宗教にも属さない人間です
神作りしものは人であり
人を作りしものは神であるって考えです
神様は誰にでも平等ではない
命の重さも人それぞれって考えでもあります
神様が誰にでも平等なら戦争は起きない
それよりも、誰も不幸にはならない
みんなが幸せで、暖かい部屋で
食事を囲み笑い合いながら食事をしているでしょう
そもそも、不幸な人とは何を持って不幸と言うのか
愛する人が亡くなったら不幸なのか
お金がないから不幸なのか
お金がありすぎるから不幸なのか
愛する人が多すぎるから不幸なのか
幸せも何を持って幸せと言うのか疑問
多分、幸せな人は自分を幸せだと気づいていない
不幸な人も自分が不幸だと気づいていない
気づいているのは、他人だけ。
あぁ、言葉がでないから不幸そうだ
お金持ちは幸せそうだ
とのりの芝は青く見えるってヤツですね
僕は僕なりに生きていたい
常にカッコよくて粋でいて、自分を張りながら
生きていたい。
上記を踏まえ考えると、僕は僕ではない
状態なので、不幸と言えるのだろうか??
現在の僕を幸せと言えるのだろうか??
人の見方、見え方によって幸せか不幸かは
決まるのではないのだろうが??
多くの人は、外見だけ見れば
僕を幸せそうだと判断するでしょう
そうなると僕は幸せ者なでしょう
明日はクリスマス・イブ
サンタさんは、僕に何をプレゼントを
してくれるのだろうか??
僕が望むものは唯一
僕に少しでも関係している人の幸せのみです
僕に少しも関係していない人の
幸せは望みません。
僕はそこまで欲張りではないので
安心してください、いいね。をして下さる方や
足跡を残さすアクセスしてくれている方は
関係をしていると僕は認識をしています
タイトルからかなりそれた内容の記事になったので
この辺で、終わりにします