「無条件の愛」(ナチュラルスピリット社刊)の著者、ポールフェリーニ氏が、メルマガに掲載したエッセイを、ヒア・アンド・ナウが訳し、そのエッセイにsumikoが言葉をつづります。
あなたの心に、私たちの言葉が届きますように。
そして、あなたの胸に響きますように。
自由
自由
この肉体や地球から去ることを自由と言うのではありません。
自由であるとは、真実でないものを手放すことを意味しているのです。
Freedom
Being free has nothing to do with leaving the body or the earth.
Being free means letting go of what isn’t true.
真実でないものを手放す・・・・・?
私は全部私だ。
私が私である限り、ウソの私でさえ私だ。
だから、私という存在にウソはないはずだ、真実であるはずだ。
では真実でないものってなんだろうか・・・?
真実の私って誰だろうか?
あるとき、カウンセリングに来た人が、
「本当の私に会いたい」
と言った。
「あなたはここにいるじゃない?
あなたは本当のあなたじゃないの?」
と私は聞いた。
「私は本当の私を生きてない」
と彼女は言った。
「では、本当のあなたって誰?」
と私は言った。
彼女は黙ってしまった。
彼女は囚われていた。
お母さんから観た彼女に。
昔の恋人から観た彼女に。
お母さんは
「あなたは根気がなくて、だめな子」だと言った。
昔の恋人は
「お前は冷たいやつだ」と言った。
だから彼女は
「根気がなくて、だめで冷たいやつ」
を演じ続けていた。
だからいつも彼女は
「これは本当の私ではない」
と自分に言い続けていた。
もちろん、それも本当の彼女だ。
誰にだって、根気のない部分もあれば、だめな部分もある。
冷たい自分だっている。
でも、それだけじゃない。
好きなことは続けれられる根気も、やさしくて暖かいいい部分も、たくさんたくさん持っている。
人を愛する気持も、自分を愛する気持も、溢れんばかりに持っている。
たとえば、一本の鉛筆がある。
鉛筆という存在自体には、意味は無い。
字が書ける、黒い文字がかける、削れる・・・。
それは用途であったり、使用方法であったり・・。
それは人間だからこそ鉛筆には意味がある。
猫や犬や、文字をかかない動物には、鉛筆はただの棒でしかない。
見方によって鉛筆の意味は変化する。
でも鉛筆自体は変化しない。
自分も一緒。
誰かが見た自分、誰かが評価した自分は、自分の一部であってもすべてではない。
すべてではないものを「すべて」と思い込んでしまったら、自分は「人の評価」でしか価値がなくなってしまう。
それは「真実でない私」ではないのだろうか?
「真実でないもの」というのは、「誰かから観た私」なのかもしれない。
あなたはあなたでいればいい。
私は私でいればいい。
誰かがあなたや私の評価をしたところで、それは「誰かからみた私」であって、「本当の私」ではない。
それに気づいたとき、私たちは本当の自分になれる。
「真実でないもの」を手放すことが出来る。
自由ってそういうことじゃないのかな・・・・?
操られないこと
断固として操られないこと
私たちを操ろうとする他人の試みに対し「ノー」と言うとき、私たちは自己信頼に「イエス」と言うことになります。
私たちは、こういう人間であるべきという他人の考えに閉じ込められてはなりません。
深く内面を掘り下げ、自分の源と繋がり、それを信頼しなさい。
そうすれば、真正な方向を見つけ、自然に優雅な流れを自分の人生に招き寄せるでしょう。
Saying No to Manipulation
When we say “no” to the attempt of other people to manipulate us, we say “yes” to self-trust.
We refuse to be molded into someone else’s idea of the way we should be.
We move into our own depth. We come to grips with our own resources and learn to trust them.
We find our authentic direction and invite the spontaneous flow of grace into our lives.
操る、操られる・・・・・。
私たちは生きていく中で、知らないうちに誰かをコントロールしようとしたり、されたりしているように思う。
それは意識的なときもあれば、無意識なときもある。
「誰かより優位に立ちたい」
「自分をよりよく見せたい」
と思うとき、私たちは誰かを操り、コントロールしているものではないだろうか・・。
私はこの言葉を読んでいて、ふと「家族」と自分の関係を思い浮かべた。
特に、姉と私の関係だ。
それは、自分からすすんで縛られていたものもあるし、知らないうちに操られていたものもある。
こんな書き方をしたら、姉はとても怒るだろう。
両親だって悲しむだろう。
「こんなにあなたを愛してきたじゃない」と・・。
そう、「家族愛、姉妹愛」という形で、私はコントロールされてきたのだ。
それに気付いたのは、家族と別れて住むようになってずいぶんたってからのことだ。
家族と言う枠をはずれたとき、私は「姉妹愛」という足かせがあったことに気付いたのだ。
ある日の電話で、姉は私に
「私はあなたが妹としてかわいかった。
でも同時に邪魔だった。
私はあなたより、かわいがられていたのだから」
と言う言葉を聴いた。
それで初めて、私は魔法が解けたような気がした。
姉は、そんな残酷な言葉を私に投げかけることに、何のココロの痛みもなかったのだろうか・・?
私はずっと
「お姉ちゃんが一番、私が二番」
という態度を、自然ととっていたのだろうか・・?
姉は私をいつでもなんどきでも、無条件に愛してくれているのだと思い込んでいた。
だから、その愛を得るために、私は「姉の言うことを聴く妹」を演じてきたのだ。
私の中で「お姉ちゃん」は絶対的な存在だった。
絶対に正しくて、間違ったことはしないし、私に対しても、常に正しいことを言う。
それは愛ゆえなのだと思い込んでいた。
もちろん、愛もあったのだ。
それと同時に支配しようとする気持もあったのだ。
私はその支配を甘んじて受けいていた。
「姉よりもだめな妹」を演じてきた。
それが愛だと思っていたから・・。
でもそれは私が望んでいた愛だったのだろうか・・?
姉の愛が、純粋な愛ではないとわかった瞬間、私には演技が必要でなくなった。
この人は、自分の都合のいいときに、私を愛し、そして、都合の悪いときに、私を邪魔者にしたのだ。
そう思えば、思い当たる節が数々出てくる。
人気のない階段に置き去りにされたり、追いすがる私の手をドアで挟んだり・・。
そのことに気付いたとき、私は私の叫び声を聴いた。
私の心の中で、子供のころの私が泣きじゃくっている。
「私は姉を愛していたのに。
姉から愛されていると思っていたのに・・・」
泣いて、泣いて、泣いて・・・
しかし、そのうち気づいたのだ。
愛に本物も偽者もないのだ。
愛自身は純粋で崇高なものだ。
あるのは、コントロールドラマに包まれた愛だ。
姉は私を支配したかったのだ。
支配することで、自分が妹より優位でいることで、自分自身を支えてきたのだ。
姉としてのプライドを持つことで、自分の存在を証明しようとしていたのだ。
私はそのドラマに乗っかっていただけだ。
それによって、私は妹を演じ、その自分に甘えてきた。
そこに愛はなかったのか・・・?
いえ、愛はある。
私たちは長年一緒に暮らしてきた中で、確かに愛を持って暮らしていたという実感がある。
コントロールドラマの最中にさえ、愛はちゃんと存在していた。
私は姉を愛している。
家族を愛している。
それに気づいた今、姉とはすこし距離を置いている。
姉にはっきりと口答えをし、姉の言葉に嫌悪感を感じる私がいる。
私はノーを言い始めた。
自分を主張しはじめた。
姉にとって、私は都合のいい妹ではなくなってしまったのだ。
そして、私は自由になった。
私は私なままでいい。
姉よりも劣っていると自分を卑下しなくていい。
お互いのコントロールドラマが解けたとき、私たちは本当の姉妹になれると信じている。
そのためにはもう少し、時間がかかる。
近しい間の愛は、複雑で濃いものだ。
自分を許す
自分を許す
自分を許すプロセスは自分自身のハートから始ります。
他人との関係は殆どありません。
自分の許しが終わっているときに、他人を許すのは簡単です。
しかし、自分の許しが未完の状態では、他人を許すことは出来ません。
Self-Forgiveness
The process of forgiveness starts in your own heart.
It has very little to do with others.
It is easy to forgive others when you have already forgiven yourself.
But it’s impossible to forgive others if you have not forgiven yourself.
「自分を許す」
実は私にはこのことがあまりよくわかっていない。
私は自分を許せているのかどうかさえ、わからない。
私は一時期、ものすごくある人を憎んでいた。
その人も私のことを憎んでいた。
こんなにいわれなく、いじめられたり、いやなことをされたのは初めてだった。
だから、私はその人を憎んだ。
憎んでいる自分がいやだったけど、憎まなければ、自分が相手の憎しみに飲み込まれてしまいそうで、怖かった。
だから憎んだ。
相手が病気をした時でさえ、憎んでいた。
よろよろとして、手を握ってあげなければ歩けない状態なのに、その手を握りながらも、ぞくぞくと悪寒が走って、握った手を振りほどいて逃げたくなった。
相手の感触の残った手を洗いたくなった。
自分の感情が「憎しみ」に操られて、制御できなかった。
そんな自分を恐ろしいと思ったけれど、それでもやっぱり憎むことをやめられなかった。
その人の存在そのものが私を苦しめた。
元気で私をいじめたその人も、弱って私に助けを求めるその人も、どちらも私を憎しみに駆り立てた。
いっそのこと「この世からいなくなってくれればいい」と思った。
そしたらある日、あっけなくその人は死んでしまった。
死んで仏様になってしまった。
仏様になってしまった人を憎むことは出来ない。
すると、今までの憎しみは自分に戻ってきた。
弱って、病気をした人を憎み続けていた私ってなんだろう?
助けを求める人の手を振りほどこうとした私ってなんだろう?
鬼じゃないだろうか・・?
私は鬼だろうか?
悪魔だろうか?
そんな私は生きている資格があるのだろうか・・・?
私は毎日毎日自問した。
誰かが人をあやめたニュースを見るたびに
「殺したいと心で思った人間と、殺してしまった人間と、どう違うのだろうか?」
と思った。
心で殺人を犯しても罪にはならないのだろうか?
本当に殺人を犯した人は、罪を償うために社会的な制裁を受けているのに、心で殺人を犯した私は、のうのうと毎日を生きている。
それって許されることなのだろうか・・・?
毎日そのことを考え続けた。
そして、そんな私が生きているってどういうことなのか、わからなかった。
「そんなこと、考えずに楽しく生きればいいんだよ」と思う自分と
「私は一生、このことを問い続けなくてはいけないのだ」と思う自分が、
いつも心の中で戦っていた。
それが一年ほど続いた。
そしてあるとき、ふと一つの言葉が私の胸に降りてきたのだ。
「あなたはもう許されている」
それは、本当に突然、心に沸いた言葉だった。
どんなに罪深くても、どんなに醜くても、神様は私を許してくれている。
(私は無宗教だけれど、「偉大なる何か」という意味で神様という言葉を使わせていただいている)
私はそれから、少しずつ、自分を受け入れられるようになってきた。
そして、私を憎んだその人は、実は私に沢山の気づきを与えてくれたのだと、改めて感謝することが出来た。
私はその人の存在によって、自分の中の鬼や悪魔を受け入れることが出来たのだ。
その人は、自分の人生をかけて、そのことを私に伝えてくれたのだ。
どんなに醜くても、どんなにひどいやつでも、私は私を受け入れて生きていくしかないのだと思った。
そして、少しずつ、少しずつ、私は許されたと思った。
私はやっぱり「自分を許す」と言うことがよくわからない。
ただ、神様が私を許してくれたことが、「私を許す」と言うことなのかもしれないと思っている。
枠をはずす
限界意識は幻想に過ぎない (翻訳:ヒア・アンド・ナウ) Imaginary Limits |
要するに、「自分の限界を超える」っていうのは「自分の枠を取っ払う」ってことだよね。
この言葉を一番最初にしたかったのは、今の私自身にぴったりと当てはまる言葉だからだ。
つい最近まで、私は自分の枠に閉じこもっていた。
別に「閉じこもろう」と思っていたわけでも、「枠を作ってやろう」と思っていたわけでもないんだけれど、枠というか、垣根をひょいと越えて振り返ってみると、「そういうことだった」と思えるのだ。
私は2年ほど前、とても落ち込んでいた。
それにはそれなりの理由があった。
理不尽に傷つけられた(と思った)し、裏切られた(と思った)。
そして、「願えばかなう」なんて言葉大嫌いだったし、「ネガティヴで何が悪い」と思っていた。
確かに世の中には、理不尽なことは沢山あるし、人を傷つけようと思わなくても傷つけることはたくさんあるし、裏切ったと思わなくても裏切ることはある。
「願ってもかなわない」こともあるし、「ネガティヴであること」も決して悪いことではない。
そうやって、自分自身に言い訳をしながら、自分を慰めていたけれど、やっぱりなんとなく心地悪かったらしい。
心のどこかで、ポジティブになりたかったし、人生を信じたいと思っていたのだと思う。
そして、なんだかんだとあって、昨年の冬、
「こんなに寒い中でウジウジしているから、いけないんだ!」
と思い立ち、沖縄へ行き、それを皮切りに、屋久島、もう一度沖縄、と相次いで旅行に出た。
おかげでお金を使い果たし、私はいっそう貧乏になってしまったけれど、なんだかすっきりとして帰ってきた。
そして、去年もやっぱり裏切られたり、どんでん返し、みたいなことがあったけれど、自分の中で
「ここで相手を恨むより、あっさりこの感情を手放して、次へのステップだと考えよう」と素直に思える自分がいたのだ。
えらい進歩だ。
おととしのままの感情でいたら、私は絶対に
「やっぱり人生なんて不公平!」
って思っていたかもしれない。
数秘術的に見ると、確かに昨年から流れが変わっているし、「うまく流れに乗ったのだ」とも考えられる。
でも、私的には、「自分が枠を取り払ったのだ」と思いたいのだ。
私は自分が作った限界の中で、処理しきれない問題に右往左往していただけなんだ。
だから、自分に限界を乗り越える度量がついたとき、それを「乗り越えられた」のだと思う。
同じようなことが起こっても、今度は、誰のせいにもせず、運命のせいにもせず、冷静に対処できたのだと思う。
要するに「学習」したんだな。
スピリチュアル的に言えば「気づき」があったということかな。
もちろん、私一人の力ではない。
沢山の方が、私を励まし、支えてくださったから、紆余曲折ありながらも、とりあえず元気になれた。
もし、あの時に、いやなことが起こらなければ、私はまだ沖縄にも屋久島にも行かなかっただろうし、それなりに、まあまあ暮らしていたのかもしれない。
旅先で出会ったような劇的な変化は、まだ私にはなかっただろう。
私はあの旅で、「自分がここにいる」ということが、どんなにすばらしいことか、皮膚を通して体験することが出来た。
「ただ生きているだけで、こんなに幸せなのに、なにをグズグズ考えているんだろう」
と思うと、小さな殻に閉じこもって、すねている自分があほらしくなったのだ。
先日出会った友人と
「5年後の自分はどうなっているだろう?」
という話になったとき、素直に「5年後の私」を想像し、紙にかけたんだと思う。
もちろん、願いを口に出したり、紙に書いたりすることがどんなに効果があるかは、何度も、それこそ腐るほど、私は聴いてきたはずなのだ。
なのに、今まで一度も実行しなかったのは、自分がもう一つそういう気持になれなかった。
つまり信じようと言う気持がなかったからだ。
今は違う。
「信じよう」と思っている。
ううん、「信じている」
これって、自分の意識が変わったからだ。
つまり自分が、「信じない」という枠を超えて、「信じる」というところへ変化したってことだ。
一つ自分の枠、自分の限界を超えたってことなんだ。
言葉は言霊っていうでしょ。
紙に書いたことを眺めているうちに、「そのためには動かなくちゃ」って思えたのだ。
そして、それが、私にとっては「書く」ということだった。
そのことをヒアさんに伝えたら、ヒアさんがすぐに電話をくれて「ポールさんの言葉を手がかりにsumikoさん、言葉を書けば?」と言ってくれたのだ。
普段はへそ曲がりな私なのに、なぜかこのときばかりは素直に首を縦に振ったのだ。
「やる!」
電話口で叫んだ。
それで、こうやって私はまた一つブログを起こして、こうやって、ここに来てくれたあなたに文章を書いている。
あなたに届けるために。
あなたとつながるために。
もし今、世の中は理不尽で、不公平で、いいことなんてちっともないと思っていたとしたら、それはそれでいいんだ。
生きていれば、そういう時は何度でもやってくる。
でも、季節は冬ばかりじゃないように、沈んだお日様は必ずまた昇るように、悪いときばかりでもないんだと思っている。
そして、春に来て欲しければ、自分で一つ超えること。
一つ枠をはずすこと。
外れなくても、超えられなくても、必ず出来る日が来ると信じること。
そして、私がまた冬になって、沈んだお日様になったとき、あなたが春だったら、今度は私にこえかけてね。
私を励ましてね。
「大丈夫、枠を超えられるときがちゃんと来るよ」ってね。
もしあなたも私も冬だったら、一緒に手を握り合おう。
「大丈夫、きっと春がくるよ。だから信じていよう。
枠を超えられるときがきっと来るよ。」ってね。
