「なにかが変、ってなにが?」
半分ほど一気に飲み干したビールのジョッキを、テーブルに置きながら聞く。
ネクタイを外し、白地にブルーのストライプのワイシャツを肘まで捲り上げている。
シャツから出た腕は秋の収穫のせいだろうか、黄金色に焼けていた。
左手首にはオメガのスピードマスターが無造作に乗っかっている。
眼は白くなっていなかった。
「具体的な何かと言うわけじゃないんですけど、
なんだろう、ボタンをかけ違ったようなわずかな歪みのような…」
サラリーマンで賑わう北口の居酒屋で、
兄貴のような先輩と
お通しの枝豆をつまみながら、ビールを飲んでいる。
「今までの毎日と、今が少しずれた所にあるような」
いや、正確に言うと、今までの毎日から、自分だけが弾き出されてしまったような。
あの星が降った夜から。
通勤電車での貧血、
初期化されていたPC、
とろんとした白い眼、
そして変な夢たち。
「まぁ、PCの不具合なんて日常茶飯事だし、貧血や疲れ目もたまにはなるだろう。疲れてるんじゃないか?」
年取るごとに身体は衰えてくるからなー、
と言いながら、きゅうりの漬物、水蛸の刺身、あさりの酒蒸し、とりあえず、と手際よくおかみさんに注文していく。
「ま、そうですよね」
と、ジョッキを傾ける。ビールはいつでも美味しい。
「でも、少しわかる気がする。俺もツアーで地方に行くとな、東京で暮らしてる自分が嘘なんじゃないかと思う事があるよ。違う時間が流れてるんじゃないかって。コンビニもなくて不便なんだけど」
すぐに出てきた胡瓜をぽりぽりと食べながら言う。
兄貴のような先輩は、新規事業開発部で子供向けの体験学習ツアーの企画営業をしている。
先輩の企画は、地方に根付く文化や歴史をただ見学するだけでなく、その土地の人に混じって体験をしたり、
過疎化が進み廃校になりそうな町に留学したりする。子供達は経験を通じて、社会問題に対して自分なりの考えや解決方法を見つけていく。
兄貴のような先輩は、地域の声を大事にしながらも、地域自身も在り方を変えるよう促して地域活性を目指している。
子供達は、普段とは異なる視点から社会の問題を自分の中に取り込み、自分が何をできるかを考えるようになり、体験後に成長を感じると保護者からの評判も良い。
ここ一週間は秋田で子供達と稲刈りをしてきたらしく、獲れたてのつやつやした精米を一合ほどお土産にもらった。
兄貴のような先輩が異動するまでは同じ部署で、何となく気が合い、毎週のように飲みに行っていた。
異動してからは出張が多く、顔を合わせる機会も減ったが、たまにこうやって何ともなしに飲みにいく。
水蛸が来た。
兄貴のような先輩は、ジョッキを指して、おかわりふたつ、と注文する。
「あぁ、何にもないけど、何でもあるんですよね。東京にあるものはなくて、東京にないものがある」
「そうそう」ぐびり、とジョッキを干す。
「東京にはほんとうに必要か分からない必要なものが多すぎますね。コンビニだってそんなに多くは要らないのに、増殖することが目的みたいに街の隙間を埋め尽くしていく」
「だけどな、少しすると、地方の人々も似たような一面があるって気付くんだ。増えるか減るかの違いだけで。ずっと歴史的にやってきたことを疑いもなく続けていて、目的が忘れられてるんだ。そして静かに失われつつあっても、それに気づかない。社会や新しい人達が変わってしまった、と思ってるんじゃないかな。」
生ふたつ、お待たせ、と言って新しいビールジョッキが届く。
大きく一口飲む。
「先輩の企画は、その『目的』を取り出して、
形を変えたやり方を、人と人との繋がりの中で作り直そうとしてるんですね」
水蛸にすだちを絞る手を止め、まじまじと私の顔を見る。
「そう、まさにそうなんだよ」
塩を振って一切れ口に入れる。
「美味い、ほら食え」と皿を私の方へ差し出す。
はい、と言って一口食べる。
「これは日本酒ですね」
「ほんとだな」
ドリンクのメニューをいそいそと開く。
アサリの酒蒸しが来た。
すみません、天の戸の冷酒。猪口ふたつね。
「いや、本当は自分が何やってるのか俺自身も分かってないんだ。ただ目の前のことに必死で。言われてみたら、そうなのかもな。手順の中で埋もれた目的を、見つけたかったのかもしれない」
お前はそういう所、鋭いよな、と呟きながらビールをぐびぐびと飲む。
あさりの貝から身を外すと、大蒜とバターの香りがほのかな湯気とともにのぼる。
磯の香りをまとったこっくりとした後味をビールが流していく。
よく冷えたガラスの徳利と猪口がテーブルに置かれる。
猪口に冷酒を注ぎ、一方を兄貴のような先輩へ渡す。
「それこそが、伝統を守るってことなのかもしれませんね。素敵ですね、先輩の仕事」
冷酒は、ほのかに甘い香りがあるのに、きりりと力強い。
「お前さ、異動してこいよ。
今は立ち上げでまだ収益が覚束ないけど、もう少ししたら予算も付きそうだし。そうしたら人も必要になる」
「楽しそう」
「今の部署も長いだろ?それにあそこの部署は何というか・・・」
「時が、止まってますね」
そして、白い眼をしている。
「老舗の部署だからな。俺も所属してたから分かるけど、それこそ日々の手順が目的化している。お前出し惜しみしてるだろ?もったいないぞ」
「そんな、出し惜しみするほど実力はないですよ」
水蛸をポン酢と紅葉おろしで食べ、冷酒を舐める。
「俺も上に言っておくからさ、考えとけよ」
私の手の中の猪口に天の戸を注ぎ、兄貴のような先輩は笑っていた。