■天の戸 | here-after

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日常からいちまいめくれた短いお話


「なにかが変、ってなにが?」


半分ほど一気に飲み干したビールのジョッキを、テーブルに置きながら聞く。

ネクタイを外し、白地にブルーのストライプのワイシャツを肘まで捲り上げている。
シャツから出た腕は秋の収穫のせいだろうか、黄金色に焼けていた。

左手首にはオメガのスピードマスターが無造作に乗っかっている。

眼は白くなっていなかった。


「具体的な何かと言うわけじゃないんですけど、
なんだろう、ボタンをかけ違ったようなわずかな歪みのような…」

サラリーマンで賑わう北口の居酒屋で、
兄貴のような先輩と
お通しの枝豆をつまみながら、ビールを飲んでいる。


「今までの毎日と、今が少しずれた所にあるような」

いや、正確に言うと、今までの毎日から、自分だけが弾き出されてしまったような。


あの星が降った夜から。


通勤電車での貧血、
初期化されていたPC、
とろんとした白い眼、

そして変な夢たち。


「まぁ、PCの不具合なんて日常茶飯事だし、貧血や疲れ目もたまにはなるだろう。疲れてるんじゃないか?」

年取るごとに身体は衰えてくるからなー、
と言いながら、きゅうりの漬物、水蛸の刺身、あさりの酒蒸し、とりあえず、と手際よくおかみさんに注文していく。



「ま、そうですよね」
と、ジョッキを傾ける。ビールはいつでも美味しい。


「でも、少しわかる気がする。俺もツアーで地方に行くとな、東京で暮らしてる自分が嘘なんじゃないかと思う事があるよ。違う時間が流れてるんじゃないかって。コンビニもなくて不便なんだけど」


すぐに出てきた胡瓜をぽりぽりと食べながら言う。

兄貴のような先輩は、新規事業開発部で子供向けの体験学習ツアーの企画営業をしている。

先輩の企画は、地方に根付く文化や歴史をただ見学するだけでなく、その土地の人に混じって体験をしたり、
過疎化が進み廃校になりそうな町に留学したりする。子供達は経験を通じて、社会問題に対して自分なりの考えや解決方法を見つけていく。

兄貴のような先輩は、地域の声を大事にしながらも、地域自身も在り方を変えるよう促して地域活性を目指している。

子供達は、普段とは異なる視点から社会の問題を自分の中に取り込み、自分が何をできるかを考えるようになり、体験後に成長を感じると保護者からの評判も良い。

ここ一週間は秋田で子供達と稲刈りをしてきたらしく、獲れたてのつやつやした精米を一合ほどお土産にもらった。

兄貴のような先輩が異動するまでは同じ部署で、何となく気が合い、毎週のように飲みに行っていた。

異動してからは出張が多く、顔を合わせる機会も減ったが、たまにこうやって何ともなしに飲みにいく。

水蛸が来た。
兄貴のような先輩は、ジョッキを指して、おかわりふたつ、と注文する。



「あぁ、何にもないけど、何でもあるんですよね。東京にあるものはなくて、東京にないものがある」

「そうそう」ぐびり、とジョッキを干す。

「東京にはほんとうに必要か分からない必要なものが多すぎますね。コンビニだってそんなに多くは要らないのに、増殖することが目的みたいに街の隙間を埋め尽くしていく」


「だけどな、少しすると、地方の人々も似たような一面があるって気付くんだ。増えるか減るかの違いだけで。ずっと歴史的にやってきたことを疑いもなく続けていて、目的が忘れられてるんだ。そして静かに失われつつあっても、それに気づかない。社会や新しい人達が変わってしまった、と思ってるんじゃないかな。」


生ふたつ、お待たせ、と言って新しいビールジョッキが届く。


大きく一口飲む。
「先輩の企画は、その『目的』を取り出して、
形を変えたやり方を、人と人との繋がりの中で作り直そうとしてるんですね」


水蛸にすだちを絞る手を止め、まじまじと私の顔を見る。

「そう、まさにそうなんだよ」

塩を振って一切れ口に入れる。

「美味い、ほら食え」と皿を私の方へ差し出す。

はい、と言って一口食べる。

「これは日本酒ですね」

「ほんとだな」
ドリンクのメニューをいそいそと開く。

アサリの酒蒸しが来た。
すみません、天の戸の冷酒。猪口ふたつね。


「いや、本当は自分が何やってるのか俺自身も分かってないんだ。ただ目の前のことに必死で。言われてみたら、そうなのかもな。手順の中で埋もれた目的を、見つけたかったのかもしれない」


お前はそういう所、鋭いよな、と呟きながらビールをぐびぐびと飲む。


あさりの貝から身を外すと、大蒜とバターの香りがほのかな湯気とともにのぼる。

磯の香りをまとったこっくりとした後味をビールが流していく。


よく冷えたガラスの徳利と猪口がテーブルに置かれる。
猪口に冷酒を注ぎ、一方を兄貴のような先輩へ渡す。

「それこそが、伝統を守るってことなのかもしれませんね。素敵ですね、先輩の仕事」


冷酒は、ほのかに甘い香りがあるのに、きりりと力強い。


「お前さ、異動してこいよ。
今は立ち上げでまだ収益が覚束ないけど、もう少ししたら予算も付きそうだし。そうしたら人も必要になる」


「楽しそう」


「今の部署も長いだろ?それにあそこの部署は何というか・・・」


「時が、止まってますね」


そして、白い眼をしている。


「老舗の部署だからな。俺も所属してたから分かるけど、それこそ日々の手順が目的化している。お前出し惜しみしてるだろ?もったいないぞ」


「そんな、出し惜しみするほど実力はないですよ」
水蛸をポン酢と紅葉おろしで食べ、冷酒を舐める。


「俺も上に言っておくからさ、考えとけよ」

私の手の中の猪口に天の戸を注ぎ、兄貴のような先輩は笑っていた。