あれは何だったのだろう。
古代米の稲刈りだけを先行して行い、“はさがけ”を終えた頃に丁度満月だったので、
気分的にちょっとほっとした雰囲気を写真に撮っておこうと思ったのだった。
ところが家にカメラを取りに行って田んぼに戻るのが少々遅れてしまった。
秋の日はつるべ落としである。
もはや暗くなり過ぎており、思うような写真は撮れなかったのだが、
「はさ」の一部に不思議な光が写っているではないか。
撮っている時にも“感じて”はいたのだが、
光源があるわけもなく反射するような物もない田んぼの中である。
あったとしても月の光の陰になっている側にあり物理的にヘンだ。
だから頭の中で「気のせい」にしてしまった。
疲れてもいたので面倒なことを考えたくもなかったとも言えるかもしれない。
気分的にちょっとほっとした雰囲気を写真に撮っておこうと思ったのだった。
ところが家にカメラを取りに行って田んぼに戻るのが少々遅れてしまった。
秋の日はつるべ落としである。
もはや暗くなり過ぎており、思うような写真は撮れなかったのだが、
「はさ」の一部に不思議な光が写っているではないか。
撮っている時にも“感じて”はいたのだが、
光源があるわけもなく反射するような物もない田んぼの中である。
あったとしても月の光の陰になっている側にあり物理的にヘンだ。
だから頭の中で「気のせい」にしてしまった。
疲れてもいたので面倒なことを考えたくもなかったとも言えるかもしれない。

かなり暗かった写真を補正したのがこれである。
やはり間違いなく“光の存在”が確認できる。
さて、これは一体何だろう。
稲もさっきまで生きていたわけだから、
田んぼにはその生気というエネルギーが満ち満ちていたはずだ。
それが一斉に刈り取られて消え行くとき、
名残を留めようとする“気”が夜露のように「はさ」に残って光っていたのかもしれない。
田んぼにはその生気というエネルギーが満ち満ちていたはずだ。
それが一斉に刈り取られて消え行くとき、
名残を留めようとする“気”が夜露のように「はさ」に残って光っていたのかもしれない。
それとも“誰か”が居たのだろうか。
いずれにしてもそれは僕を不安にさせるようなものではなく、
むしろ温かい心持ちにさせてくれたのは確かだった。
いずれにしてもそれは僕を不安にさせるようなものではなく、
むしろ温かい心持ちにさせてくれたのは確かだった。

稲刈りがすべて終わり、やはり先行して古代米の脱穀をした。
米の“気”は霧消してしまったわけではなく、
刈り取った株から一斉に新たな芽吹きとなって現れ、田んぼに時ならぬ春の風景をもたらす。
いわゆる「ひこばえ」である。
古代米のそれは“黒”が入っていて“気”の強さを感じさせるのだが、
それがある朝、霜で白く凍りつき、やがて枯れ始めると、
この里にも長い冬が訪れる。
刈り取った株から一斉に新たな芽吹きとなって現れ、田んぼに時ならぬ春の風景をもたらす。
いわゆる「ひこばえ」である。
古代米のそれは“黒”が入っていて“気”の強さを感じさせるのだが、
それがある朝、霜で白く凍りつき、やがて枯れ始めると、
この里にも長い冬が訪れる。
