私の投稿している「Ameba Blog」。最初にマイページを開けると、普段よく読むページのタイトルが表示されます。

今日気になったのは「ライター望月」さんのページ。「中央本線・高尾に残る戦争の爪痕。」
記事の中に、機銃掃射を受けたホームの支柱の写真があります。

http://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/entry-11909508852.html

折しも今日は、8月14日。明日は終戦記念日。
機銃掃射について少し調べてみました。
いつも利用している「wikipedia」によると、本土空襲の際に非戦闘員が機銃掃射を受けた実例の一つとして「湯の花トンネル列車銃撃事件」というのがありました。

Wikipedia の外部リンクを辿ると「1945年8月5日の7号機銃撃空襲について
というページにも行くことができます。このページ、元々は旧型電機の鉄道ファンのホームページですが「ED167」という機関車を調べていくうちにこの機関車が「湯ノ花トンネル事件」の時に被災した機関車であることがわかります。さらに、廃車となった同機のナンバープレートを探し当てた際、同時に「ED167」銃撃の資料として「八王子の空襲と戦災の記録」の複写を持ち帰りご自身のH.P.に掲載されています。

この事件と高尾駅の機銃掃射が関連するかどうかはわかりませんが、「ライター望月」さんのページ掲載の高尾駅の解説によるとこの駅舎支柱の銃撃痕は昭和20年5月、7月、8月の複数回あった機銃掃射のうちのいずれによるものかは特定できないとのことでした。

機銃掃射。
この言葉に即座に反応したのは、かつて私の母親(健在です。)から聞いた話が脳裏に残っていたからです。

母親は昭和8年、大阪生まれですが、終戦前の一時期奈良県の王寺駅の近くにに疎開していました。王寺は今でも交通の要衝ですが、当時は王寺機関区がありそれを狙った空襲があったようです。「wikipedia」によると昭和20(1945)年7月24日に王寺駅空襲の記載があります。

毎日新聞のリンク元は、残念ながらリンク切れとなっていますが探せば見つかるものです。
この記事の一部抜粋。

第二次世界大戦で空襲被害が小さかったと言われる奈良県。それでも戦争末期には、交通の要衝や軍事施設がしばしば米軍の標的となった。旧国鉄王寺駅を狙った空襲で

中略

 終戦間際の1945年7月24日。県立高田高等女学校(現・県立高田高)3年だった鈴木さんがこの日早朝、勤労奉仕の一環で、現在の天理市にあった飛行場建設を手伝うために列車に乗り込んで発車を待っていた時、空襲警報が鳴った。

以上引用元 いま問う平和:’11夏 香芝の鈴木さん、語り部活動300回超/奈良-毎日jp (毎日新聞2011年8月10日地方版)

これ以外に、「wikipedia」の奈良空襲の項目では7月14日に「新王寺駅」空襲で死者少なくとも2名の記載も見られます。

前置きが長くなりましたが、実はそのいずれかで母もグラマンによる機銃掃射を受けているのです。幸い、弾が当たることはなく逃げる際のかすり傷程度でしたが、グラマンのパイロットの顔が見えたと言っているぐらいですから地面すれすれにやってきて王寺機関区だけでなく周辺の民家にも手当たり次第に機銃掃射を加えたのでしょう。

母は、大阪大空襲も経験しており、電線に死体や内臓の一部がぶら下がっていたとか、焼夷弾投下の際の「ヒュー」という音も鮮明に記憶しています。

大阪大空襲は昭和20(1945)年3月13、14日に始まり、6月1日、7日と続きますが、6月7日は当時住んでいた近所の鶴橋駅も照準であったことから、上記の惨状を目の当たりにしたのはおそらくこの日あたりであろうと推測されます。

実はここまでいろいろ調べるうちに、学童疎開自体は昭和19年に始まっていること。疎開先は奈良で原則縁故疎開であること。昭和20年に疎開の1年間延長と昭和20年2月17日頃から同月末に6年生の引き上げが行われたこと。(卒業式のため?)結果的に3月13日、14日の空襲で卒業式どころではなくなったこと。等が判明してきました。

いずれも小さい頃に、母にいろいろ聞かされたことが資料の裏付けができるようになってきたのです。

「戦争」、というと何かはるか異国の出来事のように考え、平和を享受する今の日本。
かたや、「戦時中」を知る世代がどんどんいなくなり、当時の生々しくも凄惨、悲惨な状況を語る人も少なくなってきています。かくいう私もそんな一人です。

せめて「終戦の日」は、かつてあったことに思いを寄せ、二度とあんな悲惨な状況にさせない努力を惜しんではいけない気がします。