少し前になってしまうが、加賀さんが紹介したYahooニュースに関心した(元ネタはテレビ信州のものらしい)

 

 

テレビのインタビューに、諏訪農業農村支援センター所長は

「原因としては治水の工事や埋め立てが進んだことによって従来魚がすみかとしていた場所が無くなってしまったということがあって。イメージとしては昭和40年代くらいの諏訪湖の魚、そのころは魚影が濃かったので、その時期を取り戻そうと…」

と答えたが、それを受けて加賀さんは

「いわずもがなだが、我われ人間によって引き起こされた問題だ」

とコメントしている。

 

これを読んで、青柳裕介の「四万十川」を思い出した。

 

この作品の内容紹介は次の通りだ。

「毎読新聞高知支局に配属された無類の釣り好き、諸積ワタルは四万十川で川漁師の源と知り合い、数年ぶりに現れた四万十川の主である幻の大魚アカメのドンと遭遇する。その魅力に憑りつかれたワタルはドンを追い続ける源に弟子入りを志願し源の孫、民とドンを探すことに……」

 

弟子入りを申し出たワタルに源は孫の民に「メダカを釣るよう」遠回しに伝える。それを聞いたワタルはメダカなんてとおちょけるのだが、民に叱咤される

 

 

売り言葉に買い言葉とばかりに、サッサとメダカを釣り始めるが、目の前の川を泳ぐ小魚がボラ、ウグイ、ニゴイ、タカバヤの稚魚であってメダカでないことを指摘される。そして、

 

 

と説明を受ける。それならばと用水路に移動して再開する。

 

 

しかし、覗き込んだホソには一匹たりと見つからず、あたふたすると民から

「メダカの生きる環境が破壊されたのよ」

と言われ、

 

 

と説明される。そして、

 

 

とメダカを土台とした生態系について考えさせる。

 

そして、民はメダカが居るところに案内する。

 

 

更に先を読んでいただくと判ってくるのだが、釣りをする前に生態系と環境を知ることの重要さを説いているのであって、自然回帰について訴えたいわけではない。しかし、そうは言っても、我々ヘラ師は食べることなく、魚を傷つけてから水に返すということを繰り返す非生産的なことを楽しんでいるのだから環境について理解を深めておくべきと考える。

 

田んぼや畑の管理のために用水路が「人の手」で造られ、河川の氾濫防止や用水路の維持管理のために直線化・3面コンクリート護岸化を進めたが、その事で生態系を破壊したのは間違いのない事実であろう。ただ、このことを差して昔に戻すというのは暴論で、流れを一様にしない障害物や石積みなどを施せば、水生生物が住んでいた環境にかなり近づくと思われる。そもそも人の手が入ったことで水生生物が住めないというのであればアクアリウムは成立しない。

 

この手の議論でしばしば問題となるのが、元々あった自然とは何ぞや、という定義がなされていないことである。用水路もそうだが、多くの場合、開拓した土地は人が手を入れたのだから、厳密には自然とは呼べないものだ。人間が自然に入りこむことで多かれ少なかれ元からある自然を歪めるわけだから、どこまで折り合いをつけるかが重要であろう。そして、そのバランスは一律ではなく、自然豊かなところでは人間の手が極力入らないように、逆に都心部では自然が身近に感じられるように手で触れられたり、子供の安全を考えて水深や安全柵を設けるなど対策すれば良いと考える。

 

そのように考えると、ヘラ鮒釣りは特定の自然に限定されることなく、様々な自然に上手く適合している釣りと思っている。自分の場合、近所にあった喜楽沼、富士見園、新座FCなど釣り堀は懐かしく、この面影を探すように前山の池や平松FCに頻繁に通ったし、また、道満やみのわだ湖のようなこじんまりとした釣り場、それより大きい円良田湖、間瀬湖、三名湖、さらに大きい神流湖など、どの釣り場も遊びにいく。あれっ、川は?と思われるかもしれない。大昔に大型を狙って荒川に通ったが、へら鮒を釣り上げるために釣り人ができる範囲が限られていることから今の自分の好みではないのでご無沙汰している。ただ、昔夢中になったので、その魅力の片鱗くらいは判っていると思うし、なにより熱烈なファンや専門ではないが池と並行して通っている知り合いもいることから、川はヘラ師を排除することなく、受け入れていると考えている。つまり、ヘラ鮒釣りは、渓流や急流域、それに海を除けば、子供からお年寄りまで、お手軽・安全でありながらも突き詰めていくとフトコロが広く深い自然を相手にした遊びとみなしている。

 

だからこそ、釣り場は、その土地や環境に適合した場所であって欲しいし、いつまでも楽しく遊べるように我々ヘラ師は釣ることだけでなく、環境にも注意を払わなければならないと思っている。つまり、ゴミを拾うのは当然として、本当の意味で環境とは、自然とは、と問い続け、考えて行動しなければならないと思っている。如何だろうか。

 

それでは、また。